2008年11月24日

NHK大河ドラマ「篤姫」第47回「大奥の使者」

堀北真希 気にしているアゴのラインをバッチリ披露の評判
「独眼竜」渡辺謙の娘・杏、政宗の妻役で大河デビュー

11/17、NHKトップランナーに宮崎あおいさんが出演

宮崎あおい「篤姫のように生きたい」
注目番組の視聴率(大河ドラマ「篤姫」・「風のガーデン」

★★★

NHK大河ドラマ篤姫第47回「大奥の使者」

慶応4年(1868)1月末

天璋院宮崎あおい)と静寛院堀北真希)は、将軍・徳川慶喜(平岳大)の助命を朝廷に嘆願する手だてについて話し合う。そのころ、勝(北大路欣也)は幕府軍の陸軍総裁に任命される。徹底抗戦を主張する老中たちに対し、勝(北大路欣也)は薩長軍との戦は避けるべきだと主張する。

一方、京では帯刀(瑛太)岩倉具視(片岡鶴太郎)と会い、江戸攻めの軍参謀が西郷(小澤征悦)に決まったことを聞く。

江戸攻めに反対する帯刀(瑛太)は、西郷(小澤征悦)に会うため薩摩軍本陣に向かうが、面会を拒絶されてしまう。西郷(小澤征悦)帯刀(瑛太)に説得されて江戸攻めの決意がぐらつくのを恐れたのだ。

そんな帯刀(瑛太)のもとに、京で隠棲していた幾島(松坂慶子)が訪れる。

幾島(松坂慶子)帯刀(瑛太)に対し、なんとか江戸攻めを止めてほしいと願い出る。帯刀(瑛太)西郷(小澤征悦)の気持ちを変える手だてはひとつしかないと幾島(松坂慶子)に告げる。

それから間もなく、慶喜討伐の軍が京を出立する。不安を募らせる江戸城大奥の天璋院宮崎あおい)のもとに、幾島(松坂慶子)があらわれる。

「私も口が減らなくてこその幾島でございます」

幾島(松坂慶子)は、西郷(小澤征悦)に宛てた手紙を天璋院宮崎あおい)に書いてもらい、その書状を持って、西郷(小澤征悦)を説得しに自らが向かうと告げる。

篤姫 | 大河ドラマ

本寿院(高畑淳子)

家定家茂

大久保利通(原田泰造)

重野(中嶋朋子)

大久保利通(原田泰造)

お近(ともさかりえ)

滝山(稲森いずみ)

徳川家茂松田翔太

坂本龍馬玉木宏

お琴(原田夏希)

お龍(市川実日子)

★★★

NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出」24.3%
NHK大河ドラマ「篤姫」第45回「母からの文」22.6%

NHK大河ドラマ『篤姫』第39回〜第44回ほか話題

NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」23.5%
NHK大河ドラマ「篤姫」第43回「嫁の決心」24.5%
NHK大河ドラマ「篤姫」第42回「息子の死」26.3%

NHK大河ドラマ『篤姫』第25回〜第39回

宮崎あおいが号泣! - 大河ドラマ『篤姫』がクランクアップ

★★NHK大河ドラマ『天地人』★★

★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★


大河ドラマ 篤姫 http://www.nhk.or.jp/taiga/

天璋院 - Wikipedia

大河ドラマ 篤姫 http://www3.nhk.or.jp/taiga/

篤姫 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia

NHK篤姫」 : 大河ドラマ情報

皇女和宮について

皇女 和宮

坂本龍馬玉木宏



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幾島

NHK大河ドラマ篤姫

幾島・松坂慶子

幾島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幾島いくしま、文化5年6月18日(1808年7月11日) - 明治3年4月26日(1870年5月26日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院付きの御年寄。本姓は朝倉、名は糸。父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。母は秋田藩士、阿比留軍吾の娘・民。

藤田と名乗り、島津斉宣の娘で近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの女中として、ともに京都の近衛邸で過ごした。嘉永3年(1850年)に郁姫が亡くなると出家して得浄院と号し、近衛忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていた。

その後、薩摩藩主島津斉彬の養女島津篤子を近衛忠煕の養女として徳川家定に嫁がせる事が決まり、幾島と改名して篤子付きとなり、大奥に入るまでの間は教育係などを受け持っていた。その後、近衛家の家士今大路孝由の娘として天璋院と共に大奥に入ったという。大奥では、江戸城と薩摩藩との情報連絡役としても活動し、西郷隆盛を通して江戸藩邸の奥老女小ノ島と連絡をとりあい、将軍継嗣問題や薩摩藩との連携の際に重要な役目を果たした。

なお幾島の家元は、後に今大路氏から島津氏に変わっている。元治元年(1864年)に体調を崩す。翌年までは大奥での所在を確認できるが、後に京都の近衛邸で余生を過ごそうと[要出典]大奥を隠退するが、明治元年(1868年)大奥に戻って戊辰戦争の際に天璋院の使者として討幕派の薩摩軍に交渉に出向き、江戸城の無血開城にも尽力したとされる。

明治維新から2年後の1870年。63歳で東京にて死去。島津家菩提寺である大圓寺(東京)に葬られた。なお、幾島招魂碑は弟が建立し、鹿児島の朝倉家墓地にある

幾島は公家の養女として大奥入りしながらも、上臈ではなく御年寄の職に就いていた。なお、奥女中分限帳の篤子付き女中の一覧には、幾島の名は存在しない。代わりに「つぼね(局)」という御年寄の名が記されており、このつぼねは今大路孝由に所縁のある女中とされていることから幾島であろうと推定される。

幾島の出自・生没年や埋葬地は従来不明とされてきたが、2008年、鹿児島市の唐湊墓地にある幾島招魂墓を調査し(朝倉家子孫はその墓の存在を知っていたが調査はしていなかった)、墓の刻銘から生没年などが判明した[1]。 なお、同墓の刻銘に、幾島とは別の生没年(文化7年生、明治11年没)も記されていたが、これは招魂碑を建立した幾島の弟・朝倉景春の生没年と推定される。

幾島 - Wikipedia

篤姫付老女「幾島」 薩摩藩士の娘、63歳で死去
鹿児島市の招魂墓に記録


篤姫(天璋院)が島津家から13代将軍徳川家定に嫁いだ際、篤姫付の老女として江戸城大奥に入った「幾島(いくしま)」の招魂墓が、鹿児島市唐湊2丁目の唐湊墓地に残っていることが14日までに分かった。不明だった出自や生没年などが碑文に記され、尚古集成館の寺尾美保学芸員は「基礎情報がそろうことで、幾島の実像に迫ることができる」と話している。
 墓石は六角柱で、台座を含めた高さは約1.2メートル。正面に「朝倉氏幾島君招魂墓」とあり、幾島の事跡などが別の面に刻まれている。碑文によると、幾島は1808(文化5)年6月18日、薩摩藩士の娘として生まれた。70(明治3)年4月26日、63歳で東京で没し、島津家の菩提寺大円寺(東京都)に葬られた。父は薩摩藩で御側用人(おそばようにん)を務めた「朝倉景矩(孫十郎)」、母は秋田藩家臣「阿比留軍吾」の娘「民」。13歳の時に、島津家から京都の公家近衛家に嫁いだ郁(いく)姫の女中となった。
 招魂墓は朝倉家先祖代々の墓などと共に建つ。墓碑を調査している鹿児島大学職員友野春久さん(56)=同市=が3年前に碑文を記録。資料整理し、幾島の招魂墓に気付いた。幕末の絵図では、現在の同市長田町の屋敷に朝倉家の名がみられる。
 同家の子孫、朝倉康光さん(59)=宮崎市=は「祖父の代に鹿児島から宮崎に移った。(幾島の)墓の存在は知っていたが調査はしていなかった。みなさんに広く見てほしい」と話している。

★★★

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岩倉具視(片岡鶴太郎)

NHK大河ドラマ篤姫

岩倉具視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩倉具視いわくらともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)7月20日)は日本の公家、政治家。源通親の子孫。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。正一位・大勲位。

公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。幼いころの幼名は周丸であったが、同じ公家の子女達の間では「岩吉」(庶民の子供によく見られた名前)と呼ばれていた。容姿や言動が公家らしいおっとりさがなく、異彩を放っていたためという。幼いころから朝廷儒学者伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。

天保9年(1838年)8月8日、満13歳のときに岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい、「岩倉具視」となった。10月28日に叙爵。12月11日に元服するとともに昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し100俵の役料を受けた。

岩倉家の家格は、村上源氏久我家の江戸時代の分家であるので、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる下級の公家である。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元として免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も特になかったので家計は、大多数の公家同様常に裕福ではなかったという

嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。

安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しが、これに対して多くの公卿・公家から批判がなされた。

岩倉も条約調印に反対の立場であり、公家仲間の大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議する阻止行動を起こした。これを聞いた九条関白は病と称して参内を辞退したが、岩倉は諦めず御所を出るとすぐに九条邸に赴き、関白との面会を申し込んだ。九条家の家臣たちは病を理由に拒否したが、岩倉は面会できるまで動かなかったので、とうとう関白は折れて明日必ず返答すると家臣を通じて岩倉に伝え、岩倉を納得させた。岩倉が漸く九条邸を去ったときには午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。岩倉のはじめての政治運動であり、政治的勝利であった。

政5年(1858年)6月19日、幕府大老・井伊直弼が天皇の勅許無きまま独断で日米修好通商条約を締結。27日に老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。この頃の岩倉は対象が武士階級にとどまっている安政の大獄が皇室や公家階級にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。そのため京都所司代・酒井忠義や伏見奉行内藤正縄などと会談し、彼らに自分が理解する天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過であることを説いた。この後、公家からも隠居・蟄居処分にされる者が出ており結果的には会談の成果はなかったが、このとき岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りのままだった。

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士らの手により暗殺された後、安政の大獄は収束して再び朝廷との融和を目指す公武合体派が幕府内で盛り返した

岩倉具視 - Wikipedia

安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。
そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる。(和宮降嫁)
岩倉は、攘夷決行と条約破棄を条件に孝明帝の了承を得、和宮の江戸下向の列に加わった。
岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、文久2年(1862)8月、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。

不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。
中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。

その間、岩倉の意思を受けた中御門経之、大原重徳らが、佐幕派公卿の辞官と岩倉らの復帰を建言するが、かえって孝明天皇の怒りを買い、追放されてしまう。
慶応3年(1867)正月、明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり追放された公家達の復帰が赦される。
岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。
そして、文久3年(1863)の8月18日の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年10月、薩長に対し討幕の密勅を下した。
幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。
12月9日、薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。
その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼いの天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。

その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める

明治4年(1871)、右大臣になると、11月、条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
岩倉使節団は、異国の文化に戸惑いながら外交を展開していくが、元々新政府内の覇権争いで不仲だった大久保・伊藤博文と木戸孝允の亀裂などで、空中分解寸前だった。

帰国後は、留守を任されていた西郷隆盛らにより征韓が閣議決定されていたが、これを拒否した。
それに怒った西郷は辞表を提出し鹿児島へ帰る(明治六年の政変)。そして西南戦争へと繋がっていく。

明治6年(1874)には赤坂喰違で土佐士族・武市熊吉らに襲撃されたが、辛うじて命を拾った。

その後は、板垣退助らによる自由民権運動の抑圧、国憲編纂に苦慮する。

明治十四年(1881)年、伊藤博文らと図り参議・大隈重信を政界から追放する。

伊藤が憲法の研究のため渡独中の明治16年(1883)7月20日、胃がんをの為、病没。
享年59。

幕末維新人物名鑑・岩倉具視

岩倉具視・・片岡鶴太郎さんインタビュー

大河ドラマ出演は4回目になりますが、今回ほど切実な危機感を抱きながら(笑)、収録に臨んだのは初めてです。それというのも、まだ自分の中で岩倉具視をどういうふうにつくっていこうかと模索している段階で、非常に重要なシーンの収録を先に行うことになってしまったからです。

もちろん、歴史上の人物ですから資料等でつくり上げたイメージはありました。ただ、ドラマの場合は台本があり、そこで描かれた岩倉という人物と私とが一つになっていかないといけない。その部分がまだバラバラだったんです。そんな状態でセリフを覚えようとしてもまったく入らないんですね。心が入らないから丸覚えすらできない。

そこから格闘が始まりました(笑)。30分の仮眠をとっただけで24時間を費やしてもセリフが入ってこない。翌朝も続けて台本と取り組むのですが、まったくダメ。こんなことは初めてでしたから、精神的には非常に動揺しましたね。その日も深夜になり、『もうダメか』とあきらめかけて、もう一度、台本に向かったときに、ふっと私なりの岩倉像が見えてきたんです。そこからは少しずつセリフが入ってきて、明け方にはようやく『これでいける』と思えるようになりました。

私と台本の岩倉とが、だんだん一つに同化していくと声の質や音量も『こういうものだ』という答えが出てくる。だから、セリフも自然に入ってくるんです。ちょっと岩倉さんが憑依(ひょうい)しているという感じなんですね。それまでは精神がそこまでいっていなかったから、セリフもうわごとだったし、声も定まらないからつっかかるという悪循環。まさに言葉は“言霊(ことだま)”だと思いました。


岩倉という人は非常に頭の良かった方だと思いますね。想像力のある方なので、自分と異なる立場の人間の思い、あるいはさまざまな思想なども読み取れる。そのうえで策謀をめぐらし、なおかつシミュレーションをしたうえで何を選択していくのかということを考えていた。

ただ、そこまで頭が切れる分、本人にその気はないのでしょうが、非常に皮肉な言葉を発したり、相手を小馬鹿にしているかのような匂いが出てきてしまう。客観的に見たら皮肉であり嫌みだけれど、本人は本心を話しているだけだったりする(笑)。今回の岩倉を演じるにあたって意識したのは、そのへんの客観と主観という部分を見間違わないようにしようということでした。収録では、岩倉の世界でものを思い、その思想を信じて語るということだけに専念しています。撮り終わったシーンをモニターで見るとき、初めて岩倉を客観的に見るといった感じですね。

“公”の顔と“私”の顔、いわゆる公私の使い分けも興味深い。『日本国をよくしたい』という公の思いはもちろんあります。その一方、『名を成したい』という野心もある。本来の自分の欲を国のためだという言葉ですり替えていくこともあるかも知れない。その部分を表現できたら面白いなと思いますね。

実は京ことばがそんな表現をふくらませてくれるところもあるんですよ。うたうことができるというのかな。たとえば『甘おすなー』というセリフの抑揚ひとつで、岩倉の持っているちょっとした部分をぐわーんと大きく見せていくことができる。そんなふうに、ある部分はデフォルメしながら、私なりの岩倉具視を演じていけたらいいですね。

片岡鶴太郎かたおかつるたろう、1954年(昭和29年)12月21日 - )は、東京都荒川区西日暮里出身のタレント、俳優、歌手、プロボクサー、画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクション所属。東京都立竹台高等学校卒業。絵を描くときのみ左利き

高校卒業後、俳優を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し弟子入りを志願したが清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、最後には警察を呼ぶと言われ断念。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる

その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤彪と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子、たこ八郎等の真似で人気を博した

タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。また、岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。この番組では、岡本とは対等に渡り合っていた。

片岡鶴太郎 - Wikipedia
posted by 江〜篤姫 at 03:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト

2008年11月17日

11/17、NHKトップランナーに宮崎あおいさんが出演。

宮崎あおい3年半ぶり舞台主演
「中居正広&宮崎あおい」紅白司会やって!
いまや国民的女優!宮崎あおい フジ vs TBSが連ドラ主演争奪戦

11/17(月)NHKトップランナー(NHK総合:夜0時10分〜0時50分)に宮崎あおいさんが出演。

「篤姫さんの生き方がかっこいい、みなさんよく見ておいて。母と京都を旅したとき、天璋院さんに似てると声をかけられました」と語る。

また篤姫出演の話をもらったとき、出演を迷い、普段仕事の相談をしない母親に相談したと話します

実在の人物に恥じないように演じてきて、監督の全撮影終了の声を聞いたとき、実年齢の22歳より27歳も年上の49歳まで「篤姫を生ききった」としみじみ思ったそう。

親から思い出作りにといわれて始めた仕事は今年で18年目。女優という仕事の魅力を「家族みたいに大切な人が増えていくこと。守られてるし、守りたいと思う」と語ります。

篤姫で夫・家定役だった堺雅人さんとは、記者発表のときから初対面という気はしないと思ったそうで、しりとりや、碁石をどれだけ積めるかに挑戦したり、たわいもない話をして夫婦の絆を深めたそう。

宮崎あおいさんの趣味はシール集めとポストカード集め。手紙を書くのが好きで、シールをどんどん活用してデコレーション。ほかに絵を描くこと、写真を撮ることも・・

NHK大河ドラマ篤姫第46回「慶喜救出」

NHKトップランナーに瑛太さん出演(8/26)

「土曜スタジオパーク」篤姫で和宮皇女を演じるに堀北真希さん登場

高畑淳子さん「スタジオパークからこんにちは」に登場
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NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出」

宮崎あおい3年半ぶり舞台主演
「中居正広&宮崎あおい」紅白司会やって!

いまや国民的女優!宮崎あおい フジ vs TBSが連ドラ主演争奪戦

徳川慶喜役・平岳大は平幹二朗と佐久間良子の長男

高畑淳子 降板も考えた…まぶた垂れて手術

NHK大河ドラマ篤姫第46回「慶喜救出」

慶応2年12月25日、孝明天皇亡き後は朝廷内では反徳川の勢力がしだいに強くなりました

天璋院篤姫宮崎あおい)と静寛院和宮堀北真希)は大奥で寂しい正月を迎えていました。

静寛院和宮堀北真希)は徳川慶喜(平岳大)はどのようなお方かと尋ねると
天璋院篤姫宮崎あおい)は

「つかみどころのない方・・・私も好きではありません・・」

二人の願いも空しく、大坂では徳川慶喜(平岳大)が薩長軍を討つ兵を挙げようとしていた。

徳川1万兵、薩摩5千兵

西郷(小澤征悦)たちも幕府軍を迎え撃つ準備を京で整え、ついに戦いが始まる。

鳥羽・伏見の戦いでした。

薩長軍は岩倉(片岡鶴太郎)の準備した錦の御旗(にしきのみはた)を戦場で掲げる。天皇の敵となった幕府軍は総崩れとなり、徳川慶喜(平岳大)は部下を捨て江戸へ逃げ帰ってしまう。

徳川慶喜(平岳大)は、勝(北大路欣也)に力を貸して欲しいと頼むが、

「ただ一度負けたからといってむざむざ逃げ帰るとはなんといことを・・」

徳川慶喜(平岳大)

「幕府は朝廷を敬い、ひたすら尊王を貫けという先祖代々の教えを誰よりも忠実に守ってきた・・そのワシが朝敵にされるなど合点がゆかぬ・・力を貸してくれぬか、頼るべきはそちしかしない」

頼るべきは天璋院篤姫宮崎あおい)だと言われ、

「なぜわしが・・薩摩とつながりのある・・ワシを朝敵に仕立て上げた薩摩・・それも分家ふぜいに・・」

徳川慶喜(平岳大)はしぶしぶ天璋院篤姫宮崎あおい)面会を申し込む。

徳川慶喜(平岳大)が逃げ帰ったという知らせは、大奥を大きく揺るがしていた。

徳川慶喜(平岳大)の首を差し出せと言う本寿院(高畑淳子)の叫びに、沈黙を守る天璋院篤姫宮崎あおい)。

「会おう、とにかく会わねばなにも始まらぬ・・」

徳川慶喜(平岳大)

辞官納地を受け入れることで戦を避けようとしましたが、薩摩の策略に乗せられはからずも戦に引き込まれ敗北をきっしました」

天璋院篤姫宮崎あおい)は

「なぜ、多くの兵を置き去りにし、江戸へ逃げ帰ってきたのですか」

徳川慶喜(平岳大)

「私が大阪より姿を消さなければ、どちらかが滅ぶまで戦い続けるでしょう、真の敵は諸外国、内輪の戦を避けなければ・・」

天璋院篤姫宮崎あおい)は

「なんのために私に・・勝に言われてですね・・あなたが自分の意思で来るわけがない、あなたは私を侮っておいでじゃ・・女子ゆえ、なりあがりゆえ・・今は大奥を束ねる身、このようなことで徳川宗家をつぶすわけにはいかないのです」

対面の席で、生き恥をさらすくらいなら死を選ぶと言う徳川慶喜(平岳大)に、天璋院篤姫宮崎あおい)は

「きれいごとはもうよい、最後の将軍慶喜は潔く散った・・そのあと残るのは本来の徳川宗家ではない、当主を殺しおめおめと生き残った抜け殻・・生きてもらいます、あなたを信じしたがったのに裏切られた者たちへの償いのためにも。生き恥をさらすのです。やるべきことはもうひとつ・・」

そして、天璋院篤姫宮崎あおい)は徳川慶喜(平岳大)に、隠居謹慎を言い渡し静寛院和宮堀北真希)とともに徳川慶喜(平岳大)助命の願いを書くことを決意する。

驚く徳川慶喜(平岳大)に、天璋院篤姫宮崎あおい)は徳川慶喜(平岳大)もまた自分の家族であると語る天璋院篤姫宮崎あおい)。

天璋院篤姫宮崎あおい)は、亡くなった家定家茂の分まで生きて欲しいと、徳川慶喜(平岳大)に伝える。

「家族である以上、あなたを命を懸けて守らねばなりません。あなたは聡明な人です。すべてが見通せてしまったのでしょう。人の上に立つものは孤独です。つらさは味わったものでなければわかりません。大奥1000人をとりしきることでさえ足がすくみます。天下を治める将軍ともなればいかほどのものか・・」

一方、京では西郷(小澤征悦)が江戸攻めの指揮をとりたいと岩倉(片岡鶴太郎)に願い出ていた。その目は討幕の決意に満ちていた…。

“世界の小澤”の長男・小澤征悦はどんな男か

大政奉還たいせいほうかん

大久保利通(原田泰造)

重野(中嶋朋子)

小松帯刀瑛太

大久保利通(原田泰造)

お近(ともさかりえ)

滝山(稲森いずみ)

徳川家茂松田翔太

坂本龍馬玉木宏

お琴(原田夏希)

お龍(市川実日子)

★★★

NHK大河ドラマ「篤姫」第45回「母からの文」22.6%

NHK大河ドラマ『篤姫』第39回〜第44回ほか話題

NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」23.5%
NHK大河ドラマ「篤姫」第43回「嫁の決心」24.5%
NHK大河ドラマ「篤姫」第42回「息子の死」26.3%

NHK大河ドラマ『篤姫』第25回〜第39回

宮崎あおいが号泣! - 大河ドラマ『篤姫』がクランクアップ

★★NHK大河ドラマ『天地人』★★

★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★


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皇女和宮について

皇女 和宮

坂本龍馬玉木宏

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徳川慶喜

徳川慶喜
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徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、よしひさ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(将軍在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) - 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。御三卿・一橋徳川家の9代当主。

唯一、将軍としての執務を江戸城で行なわなかったほか、大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城などを行なった江戸幕府最後の将軍。内大臣。従一位勲一等公爵。貴族院議員。

天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。母は正室・登美宮吉子[1]。幼名は七郎麿(しちろうまろ)。

男子は国許で養育するという斉昭の教育方針に則り、生後7ヶ月にして水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授されている。 慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、当初は斉昭も他家へ養子には出さず、長男・慶篤の控えとして手許に残そうと考えていた

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。

一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は徳川慶福と決した。

同年、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に不時登城し直弼を詰問するが、逆に不時登城の罪を問われ、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは、取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている。

万延元年(1860年)に謹慎は解除となる。 文久2年(1862年)、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使・大原重徳が江戸に入り、「徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を大老に登用すべし」という孝明天皇の勅命が下される。 7月6日、幕府は慶喜を将軍後見職、春嶽を政事総裁職に任命した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。

文久3年(1863年)には将軍・徳川家茂の先駆けとして上洛、攘夷を迫る朝廷との交渉に手を尽くした。孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において、天皇から家茂が節刀を受けてしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので、「風邪発熱」(仮病)と称して家茂に拝謁を急遽取りやめさせた。

八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されると、公武合体・佐幕両派による参与会議に参加すべく再び上洛。しかし会議がまとまらないと見るや、故意に中川宮らとの酒席で泥酔し、居合わせた伊達宗城、松平春嶽、島津久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらってるんだ!」などと暴言を吐いて体制を崩壊させるなど、手段を選ばないとも言える交渉を行なった。

以後は京都に留まり朝廷から禁裏御守衛総督に任じられ、守護職・松平容保(会津藩主)、所司代・松平定敬(桑名藩主)と共に勤皇の志士や公家の取り締まりにあたる(一会桑体制)。天狗党の乱では慶喜を支持していた武田耕雲斎ら実家・水戸藩の家臣たちを切り捨てる冷徹さも見せた。

元治元年(1864年)、禁門の変では幕府軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州軍をみずから攻撃。それに続く第一次長州征伐が終わると、無勅許状態にあった日米修好通商条約の勅許に奔走し、条件付ながら勅許を得ることに成功した。

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は敗退。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、休戦協定の締結に成功する。

家茂の後継に推されたが、慶喜はこれを固辞。8月20日に徳川宗家は相続したが将軍職就任は拒み続けた。その後、老中らが将軍就任を懇請したが受諾せず、12月5日に将軍宣下を受けて将軍に就任した。これはいわば恩を売った形で将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあった。

慶喜はフランス公使・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し、老中の月番制を廃止した。また、実弟・徳川昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。

薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、明治天皇に政権返上を上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたと言われる。

しかし、倒幕を目指す大久保利通、岩倉具視の画策で、12月には王政復古の大号令が出され、慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた。慶喜は衝突を避けるべく大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて徳川の正当性を主張、さらに朝廷に運動して辞官納地を修正させて穏やかな形に直してもらう。翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩が江戸市中で行なった挑発に挙兵。会津・桑名藩兵を使って京都を封鎖するも、年が明けて1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が形勢不利と見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、兵を置き去りにして軍鑑開陽丸で江戸へ退却した。

間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が下り、大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野寛永寺大慈院において謹慎する。また徳川宗家の家督は養子・田安亀之助(のちの徳川家達)に譲った。

勝と官軍参謀・西郷隆盛との交渉がまとまり江戸城が無血開城されると慶喜の身柄は水戸へ移された。藩校弘道館の一室にて引き続き謹慎した後、7月には徳川家が移封された駿府に移った。これにより、江戸幕府は完全に幕を閉じた。この戊辰戦争以降、幕府の制度は新政府によって廃止され、復活することは無かった。慶喜は江戸幕府のみならず武家政権最後の征夷大将軍となった。

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除される。

明治30年(1897年)に東京・巣鴨に移り住む。翌年には皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興す。明治43年(1910年)に家督を嫡男・慶久に譲り隠居。

以後は政治には携わらず(ただし、1902年〜1910年に貴族院議員となった)、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくったと言われている。

大正2年(1913年)に感冒にて死去。享年77歳(満76歳と0ヶ月25日)は徳川歴代将軍の中でも最長命であった。

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十五代将軍 徳川慶喜

徳川慶喜

NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出」
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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。

慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令により、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12月13日には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地の返納を実行するだろうという見通しを総裁(首相)の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。

12月23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。

再度松平春嶽と徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れたが、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行う(庄内藩の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)と、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まり、慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶喜出兵の報告を受けて政府に緊張が走り、慶応4年正月3日(1868年1月27日)から緊急会議が招集された。政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、政府議定岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した

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NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出」
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2008年11月10日

NHK大河ドラマ「篤姫」第45回「母からの文」

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NHK大河ドラマ篤姫第45回「母からの文」

大政奉還たいせいほうかん)により、政権を朝廷に返した徳川慶喜(平岳大)だが、400万石の領地をもつ徳川家の力は以前強いものでした。(加賀100万石、薩摩77万石)

西郷(小澤征悦)大久保利通(原田泰造)たちは、帝みずからが国を治めるという王政復古を計画します

さらに、徳川慶喜(平岳大)に、帝から授かった官位を返し、所領の一部を収めるという辞官納地を要求します。

慶応3年11月・・

将軍も御台所もいない大奥では、天璋院篤姫宮崎あおい)だけが心の支えとなっていた。

重野(中嶋朋子)は小松帯刀に状況を聞いてみることを提案するが、天璋院篤姫宮崎あおい)は

「それはできぬ、帯刀を追い詰めてしまう、友への心遣いというもの・・」

小松帯刀瑛太)は徳川家を討とうとする西郷(小澤征悦)大久保利通(原田泰造)をあくまで止めようとしていた。

しかし二人は聞く耳を持たず、岩倉(片岡鶴太郎)とともに幕府を倒す計画を進める。

慶応3年12/7・・

岩倉の画策で、朝廷は徳川慶喜(平岳大)に官位と領地の返上を命じる。(辞官納地

天璋院篤姫宮崎あおい)はその命令に疑問を覚えつつ、勝(北大路欣也)に戦だけは避けるようにと言う。

しかし徳川慶喜(平岳大)は薩摩・長州を挑発、諸国の軍勢が大坂へ集まり始める。

小松帯刀瑛太)は天璋院篤姫宮崎あおい)はを救うため、お近(ともさかりえ)
と一緒に お幸(樋口可南子)の元へ向かう。

お幸(樋口可南子)はそういう状況で、天璋院篤姫宮崎あおい)が薩摩へ戻ってくることはあるまいといい

薩摩の女子には薩摩の女子の筋の通し方というものがあるのです。」

小松帯刀瑛太)は久光公から、天璋院篤姫宮崎あおい)に手紙を書いても良いというお許しをもらい、その手紙をお幸(樋口可南子)に渡します

小松帯刀瑛太)に頼まれ、お幸(樋口可南子)天璋院篤姫宮崎あおい)に薩摩へ帰るようにとの文を書く。

「久しぶりに筆をとりました。申し上げたいことはただひとつ、薩摩にお帰りいただきたいのです・・朝夕、桜島を眺め語り合うことができたらどんなに嬉しいことでしょう。もしこの手紙を読んで心が揺れることがあれば、薩摩へお戻りください」

母からの文を読んだ天璋院篤姫宮崎あおい)は、使者の小の島(佐藤藍子)に帰ることはできないと涙ながらに告げる。

「私は徳川の人間だから、帰るわけにはいかぬ」

小の島(佐藤藍子)

「私はここを動くわけにはいきません。私は島津家家老、小松帯刀殿の厳命によりここにまいりました。」

天璋院篤姫宮崎あおい)は

「私は徳川の人間としてこの大奥を守る・・」

そこで重野(中嶋朋子)滝山(稲森いずみ)に、薩摩へ帰るよう天璋院篤姫宮崎あおい)を説得して欲しいと頼む。

生まれ育った薩摩に討たれるようなことがあってはあまりにむごいと言う重野(中嶋朋子)に折れ、滝山(稲森いずみ)天璋院篤姫宮崎あおい)の前へ。

しかし天璋院篤姫宮崎あおい)は、大奥の皆こそが自分の家族だと言いその説得を断る。

そして大奥を最後まで守り抜く決意を新たにするのだった…。

薩摩では、お幸(樋口可南子)

「あの子は薩摩には戻ってこないでしょう。私が産んだ子だからわかります。そうとわかっていても、文を出さずにはいられなかった・・それもまたあの子が私が産んだ子だからです。」

慶応3年12/23、江戸城の二の丸が炎上、薩摩のものが忍び込み、火をはなったという噂が流れました。

勝(北大路欣也)は、薩摩の策略ではないか、徳川家にケンカを売っているのではないかと言います。その策略に乗ってはいけないと勝(北大路欣也)は言います。

「薩摩も長州も必死なのです、武力で倒すのが一番と思い込んでいるのでしょう。」

天璋院篤姫宮崎あおい)は

「ならばこちらも必死です、しかし戦はいけない・・」

★★★

小松帯刀瑛太)は

「私はいったいこれまでなにをなしてきたのか・・戦がおこれば・・人は死ぬ・・そうならないために戦ってきたはずだったのに・・」


徳川家茂松田翔太

坂本龍馬玉木宏

静寛院和宮堀北真希

お琴(原田夏希)

本寿院(高畑淳子)

お龍(市川実日子)

★★★

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小松帯刀 篤姫
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2008年11月07日

NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」


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NHK大河ドラマ篤姫第44回「龍馬死すとも」

徳川家茂松田翔太)のいなくなった大奥は寂しさに包まれていた。

跡を継いだ徳川慶喜(平岳大)は京にあり、薩摩長州との戦いに備えている。

天璋院篤姫宮崎あおい)は、主のいない大奥の危機をひしひしと感じていた。

一方、小松帯刀瑛太)は西郷(小澤征悦)大久保利通(原田泰造)とともに岩倉具視(片岡鶴太郎)の元にいた。

岩倉具視(片岡鶴太郎)は、幕府を武力で倒すべきと主張。

それに同意する西郷(小澤征悦)大久保利通(原田泰造)に、小松帯刀瑛太)は衝撃を受ける。

小松帯刀瑛太)は、坂本龍馬玉木宏)から和をもって幕府を倒す大政奉還たいせいほうかん)の策を聞き、その実行を決意。

諸侯の集まる会議の席で、政治を幕府から朝廷へと返す大政奉還の意義を熱弁する。

徳川慶喜(平岳大)が政権を返上するとの知らせが届いた大奥は動揺する。

天璋院篤姫宮崎あおい)もどうして良いか分からない。

そんな中、庭田嗣子(中村メイコ)が倒れ他界し、静寛院和宮堀北真希)は深い悲しみに包まれる。

大奥に入って5年の月日が流れていました。

小松帯刀瑛太)は薩摩へと帰る数日前、坂本龍馬玉木宏)と日本の未来について語りあっていた。

小松帯刀瑛太)は

「聞かせてもらえませんか、これからやってみたいことを」

坂本龍馬玉木宏)は

「昔、勝先生に言われた・・海は全部つながってると。海の果ての果てまで行ってみたい、そこになにがあってどんな暮らしをしているか見てみたい・・

小松帯刀瑛太)は

「日本は小さな国でうからね、坂本さんには合わないかもしれない・・」

坂本龍馬玉木宏)は

「そんなことはない、この国が一番、そうでなかったらこの国のことは考えない・・日本はどんどんよくなる、もうすぐ、武士や町人、百章がなくなってみんなが互角に話し、交わり、政に加わる世の中になる、望んでいたらそうなる・・」

しかし薩摩に帰った小松帯刀瑛太)の元に届いたのは、坂本龍馬玉木宏)暗殺の知らせだった。

天璋院篤姫宮崎あおい)は勝(北大路欣也)から大政奉還の意味と、それに命をかけた、坂本龍馬玉木宏)の存在を知る。

そして、ある決意を大奥の皆の前で語り始める…。

大奥は安泰である。

幕府に我らを守る力がない今、大奥と徳川家はわたしが守っていく。

天下の形勢、人の思惑に左右されるのは、やめとする。

大奥を守るために私は戦う。」

静寛院和宮堀北真希

「母上様、私も徳川に嫁いだ身、母上様とともに戦う覚悟、できております」

大奥は、私と宮さまでまもっていきます。」

お近(ともさかりえ)

お琴(原田夏希)

本寿院(高畑淳子)

お龍(市川実日子)

★★★

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小松帯刀 篤姫
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2008年11月03日

大政奉還

NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」

大政奉還
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

大政奉還たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜が、明治天皇に対して統治権の返上を上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した政治的事件である。

江戸時代後期には、江戸幕府の全国統治は天皇から将軍への委任関係に由来するという大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた。

薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期、公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩は、慶応3年(1867年)10月3日に将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。これを受け、10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(11月9日)に明治天皇へ上奏文を提出した。そして翌・10月15日(11月10日)、天皇は参内した慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立した。この大政奉還は坂本龍馬が発案計画したものであった。

おりしも、倒幕派公家の岩倉具視らの画策によって討幕の密勅が下されようとしていたときである。慶喜は先手を打って大政を奉還することで、討幕の名分を失わせた。慶喜は10月24日に征夷大将軍職辞職も朝廷に申し出る。当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えてのことである。

実際に朝廷は外交に関しては全くなすすべが無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府の役人であった。

この時点で倒幕派公家が朝廷内の主導権を握っていたわけではなかった。前年・慶応2年12月に親徳川派の孝明天皇が崩御したものの、慶応3年1月に践祚した明治天皇は満15歳と年若く、やはり親徳川派である関白・二条斉敬(慶喜の従兄)が約80年ぶりとなる摂政に就任した。朝廷内では二条家を含む五摂家が他の公家衆に対して支配的な力を持っており、一時期は近衛家が親薩摩、鷹司家が親長州となっていたものの、この頃には徳川家支持に傾いていた。一方三条実美ら過激長州派公家は文久3年8月18日の政変以来廟堂から追放されたままであり、岩倉ら少数の倒幕派公家は家柄が低くそれなりの影響力はあっても朝廷内の主導権を握ってはいなかった。

つまりこの時期の朝廷は、二条摂政や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)ら親徳川派上級公家によってなお主導されていたのであり、さきの討幕の密勅は、主導権を持たない岩倉具視ら倒幕派の中下級公家と薩長側の非常手段として画策されたものである。(詳細は討幕の密勅)

このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も徳川慶喜が主導するものになることが当然予想された。薩長や岩倉らが実権を掌握するためには、クーデターにより親徳川派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して天皇親政の新体制をうち立て、慶喜には辞官・納地(旧幕府領の返上)をもとめて新政権の中心となることを阻止することが必要となり、王政復古へ向かっていくことになった。

明治から第二次世界大戦までの間、天皇に関する行事は11月10日に実施される事が多かった。例えば、昭和天皇の即位の礼(西暦1928年)や神武暦2600年式典(西暦1940年)は、いずれも11月10日に実施された。これは(大政奉還を勅許し)政権が天皇に復した日が11月10日だった事に因んでいる。

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大政奉還と王政復古

(西郷隆盛の生涯)薩長同盟から大政奉還まで

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NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」
NHK大河ドラマ『篤姫』第39回〜第44回

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