2008年11月24日

NHK大河ドラマ「篤姫」第47回「大奥の使者」

堀北真希 気にしているアゴのラインをバッチリ披露の評判
「独眼竜」渡辺謙の娘・杏、政宗の妻役で大河デビュー

11/17、NHKトップランナーに宮崎あおいさんが出演

宮崎あおい「篤姫のように生きたい」
注目番組の視聴率(大河ドラマ「篤姫」・「風のガーデン」

★★★

NHK大河ドラマ篤姫第47回「大奥の使者」

慶応4年(1868)1月末

天璋院宮崎あおい)と静寛院堀北真希)は、将軍・徳川慶喜(平岳大)の助命を朝廷に嘆願する手だてについて話し合う。そのころ、勝(北大路欣也)は幕府軍の陸軍総裁に任命される。徹底抗戦を主張する老中たちに対し、勝(北大路欣也)は薩長軍との戦は避けるべきだと主張する。

一方、京では帯刀(瑛太)岩倉具視(片岡鶴太郎)と会い、江戸攻めの軍参謀が西郷(小澤征悦)に決まったことを聞く。

江戸攻めに反対する帯刀(瑛太)は、西郷(小澤征悦)に会うため薩摩軍本陣に向かうが、面会を拒絶されてしまう。西郷(小澤征悦)帯刀(瑛太)に説得されて江戸攻めの決意がぐらつくのを恐れたのだ。

そんな帯刀(瑛太)のもとに、京で隠棲していた幾島(松坂慶子)が訪れる。

幾島(松坂慶子)帯刀(瑛太)に対し、なんとか江戸攻めを止めてほしいと願い出る。帯刀(瑛太)西郷(小澤征悦)の気持ちを変える手だてはひとつしかないと幾島(松坂慶子)に告げる。

それから間もなく、慶喜討伐の軍が京を出立する。不安を募らせる江戸城大奥の天璋院宮崎あおい)のもとに、幾島(松坂慶子)があらわれる。

「私も口が減らなくてこその幾島でございます」

幾島(松坂慶子)は、西郷(小澤征悦)に宛てた手紙を天璋院宮崎あおい)に書いてもらい、その書状を持って、西郷(小澤征悦)を説得しに自らが向かうと告げる。

篤姫 | 大河ドラマ

本寿院(高畑淳子)

家定家茂

大久保利通(原田泰造)

重野(中嶋朋子)

大久保利通(原田泰造)

お近(ともさかりえ)

滝山(稲森いずみ)

徳川家茂松田翔太

坂本龍馬玉木宏

お琴(原田夏希)

お龍(市川実日子)

★★★

NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出」24.3%
NHK大河ドラマ「篤姫」第45回「母からの文」22.6%

NHK大河ドラマ『篤姫』第39回〜第44回ほか話題

NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」23.5%
NHK大河ドラマ「篤姫」第43回「嫁の決心」24.5%
NHK大河ドラマ「篤姫」第42回「息子の死」26.3%

NHK大河ドラマ『篤姫』第25回〜第39回

宮崎あおいが号泣! - 大河ドラマ『篤姫』がクランクアップ

★★NHK大河ドラマ『天地人』★★

★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★


大河ドラマ 篤姫 http://www.nhk.or.jp/taiga/

天璋院 - Wikipedia

大河ドラマ 篤姫 http://www3.nhk.or.jp/taiga/

篤姫 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia

NHK篤姫」 : 大河ドラマ情報

皇女和宮について

皇女 和宮

坂本龍馬玉木宏



posted by 江〜篤姫 at 04:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫

幾島

NHK大河ドラマ篤姫

幾島・松坂慶子

幾島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幾島いくしま、文化5年6月18日(1808年7月11日) - 明治3年4月26日(1870年5月26日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院付きの御年寄。本姓は朝倉、名は糸。父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。母は秋田藩士、阿比留軍吾の娘・民。

藤田と名乗り、島津斉宣の娘で近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの女中として、ともに京都の近衛邸で過ごした。嘉永3年(1850年)に郁姫が亡くなると出家して得浄院と号し、近衛忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていた。

その後、薩摩藩主島津斉彬の養女島津篤子を近衛忠煕の養女として徳川家定に嫁がせる事が決まり、幾島と改名して篤子付きとなり、大奥に入るまでの間は教育係などを受け持っていた。その後、近衛家の家士今大路孝由の娘として天璋院と共に大奥に入ったという。大奥では、江戸城と薩摩藩との情報連絡役としても活動し、西郷隆盛を通して江戸藩邸の奥老女小ノ島と連絡をとりあい、将軍継嗣問題や薩摩藩との連携の際に重要な役目を果たした。

なお幾島の家元は、後に今大路氏から島津氏に変わっている。元治元年(1864年)に体調を崩す。翌年までは大奥での所在を確認できるが、後に京都の近衛邸で余生を過ごそうと[要出典]大奥を隠退するが、明治元年(1868年)大奥に戻って戊辰戦争の際に天璋院の使者として討幕派の薩摩軍に交渉に出向き、江戸城の無血開城にも尽力したとされる。

明治維新から2年後の1870年。63歳で東京にて死去。島津家菩提寺である大圓寺(東京)に葬られた。なお、幾島招魂碑は弟が建立し、鹿児島の朝倉家墓地にある

幾島は公家の養女として大奥入りしながらも、上臈ではなく御年寄の職に就いていた。なお、奥女中分限帳の篤子付き女中の一覧には、幾島の名は存在しない。代わりに「つぼね(局)」という御年寄の名が記されており、このつぼねは今大路孝由に所縁のある女中とされていることから幾島であろうと推定される。

幾島の出自・生没年や埋葬地は従来不明とされてきたが、2008年、鹿児島市の唐湊墓地にある幾島招魂墓を調査し(朝倉家子孫はその墓の存在を知っていたが調査はしていなかった)、墓の刻銘から生没年などが判明した[1]。 なお、同墓の刻銘に、幾島とは別の生没年(文化7年生、明治11年没)も記されていたが、これは招魂碑を建立した幾島の弟・朝倉景春の生没年と推定される。

幾島 - Wikipedia

篤姫付老女「幾島」 薩摩藩士の娘、63歳で死去
鹿児島市の招魂墓に記録


篤姫(天璋院)が島津家から13代将軍徳川家定に嫁いだ際、篤姫付の老女として江戸城大奥に入った「幾島(いくしま)」の招魂墓が、鹿児島市唐湊2丁目の唐湊墓地に残っていることが14日までに分かった。不明だった出自や生没年などが碑文に記され、尚古集成館の寺尾美保学芸員は「基礎情報がそろうことで、幾島の実像に迫ることができる」と話している。
 墓石は六角柱で、台座を含めた高さは約1.2メートル。正面に「朝倉氏幾島君招魂墓」とあり、幾島の事跡などが別の面に刻まれている。碑文によると、幾島は1808(文化5)年6月18日、薩摩藩士の娘として生まれた。70(明治3)年4月26日、63歳で東京で没し、島津家の菩提寺大円寺(東京都)に葬られた。父は薩摩藩で御側用人(おそばようにん)を務めた「朝倉景矩(孫十郎)」、母は秋田藩家臣「阿比留軍吾」の娘「民」。13歳の時に、島津家から京都の公家近衛家に嫁いだ郁(いく)姫の女中となった。
 招魂墓は朝倉家先祖代々の墓などと共に建つ。墓碑を調査している鹿児島大学職員友野春久さん(56)=同市=が3年前に碑文を記録。資料整理し、幾島の招魂墓に気付いた。幕末の絵図では、現在の同市長田町の屋敷に朝倉家の名がみられる。
 同家の子孫、朝倉康光さん(59)=宮崎市=は「祖父の代に鹿児島から宮崎に移った。(幾島の)墓の存在は知っていたが調査はしていなかった。みなさんに広く見てほしい」と話している。

★★★

posted by 江〜篤姫 at 03:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 幾島

岩倉具視(片岡鶴太郎)

NHK大河ドラマ篤姫

岩倉具視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩倉具視いわくらともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)7月20日)は日本の公家、政治家。源通親の子孫。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。正一位・大勲位。

公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。幼いころの幼名は周丸であったが、同じ公家の子女達の間では「岩吉」(庶民の子供によく見られた名前)と呼ばれていた。容姿や言動が公家らしいおっとりさがなく、異彩を放っていたためという。幼いころから朝廷儒学者伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。

天保9年(1838年)8月8日、満13歳のときに岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい、「岩倉具視」となった。10月28日に叙爵。12月11日に元服するとともに昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し100俵の役料を受けた。

岩倉家の家格は、村上源氏久我家の江戸時代の分家であるので、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる下級の公家である。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元として免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も特になかったので家計は、大多数の公家同様常に裕福ではなかったという

嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。

安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しが、これに対して多くの公卿・公家から批判がなされた。

岩倉も条約調印に反対の立場であり、公家仲間の大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議する阻止行動を起こした。これを聞いた九条関白は病と称して参内を辞退したが、岩倉は諦めず御所を出るとすぐに九条邸に赴き、関白との面会を申し込んだ。九条家の家臣たちは病を理由に拒否したが、岩倉は面会できるまで動かなかったので、とうとう関白は折れて明日必ず返答すると家臣を通じて岩倉に伝え、岩倉を納得させた。岩倉が漸く九条邸を去ったときには午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。岩倉のはじめての政治運動であり、政治的勝利であった。

政5年(1858年)6月19日、幕府大老・井伊直弼が天皇の勅許無きまま独断で日米修好通商条約を締結。27日に老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。この頃の岩倉は対象が武士階級にとどまっている安政の大獄が皇室や公家階級にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。そのため京都所司代・酒井忠義や伏見奉行内藤正縄などと会談し、彼らに自分が理解する天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過であることを説いた。この後、公家からも隠居・蟄居処分にされる者が出ており結果的には会談の成果はなかったが、このとき岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りのままだった。

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士らの手により暗殺された後、安政の大獄は収束して再び朝廷との融和を目指す公武合体派が幕府内で盛り返した

岩倉具視 - Wikipedia

安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。
そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる。(和宮降嫁)
岩倉は、攘夷決行と条約破棄を条件に孝明帝の了承を得、和宮の江戸下向の列に加わった。
岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、文久2年(1862)8月、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。

不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。
中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。

その間、岩倉の意思を受けた中御門経之、大原重徳らが、佐幕派公卿の辞官と岩倉らの復帰を建言するが、かえって孝明天皇の怒りを買い、追放されてしまう。
慶応3年(1867)正月、明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり追放された公家達の復帰が赦される。
岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。
そして、文久3年(1863)の8月18日の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年10月、薩長に対し討幕の密勅を下した。
幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。
12月9日、薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。
その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼いの天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。

その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める

明治4年(1871)、右大臣になると、11月、条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
岩倉使節団は、異国の文化に戸惑いながら外交を展開していくが、元々新政府内の覇権争いで不仲だった大久保・伊藤博文と木戸孝允の亀裂などで、空中分解寸前だった。

帰国後は、留守を任されていた西郷隆盛らにより征韓が閣議決定されていたが、これを拒否した。
それに怒った西郷は辞表を提出し鹿児島へ帰る(明治六年の政変)。そして西南戦争へと繋がっていく。

明治6年(1874)には赤坂喰違で土佐士族・武市熊吉らに襲撃されたが、辛うじて命を拾った。

その後は、板垣退助らによる自由民権運動の抑圧、国憲編纂に苦慮する。

明治十四年(1881)年、伊藤博文らと図り参議・大隈重信を政界から追放する。

伊藤が憲法の研究のため渡独中の明治16年(1883)7月20日、胃がんをの為、病没。
享年59。

幕末維新人物名鑑・岩倉具視

岩倉具視・・片岡鶴太郎さんインタビュー

大河ドラマ出演は4回目になりますが、今回ほど切実な危機感を抱きながら(笑)、収録に臨んだのは初めてです。それというのも、まだ自分の中で岩倉具視をどういうふうにつくっていこうかと模索している段階で、非常に重要なシーンの収録を先に行うことになってしまったからです。

もちろん、歴史上の人物ですから資料等でつくり上げたイメージはありました。ただ、ドラマの場合は台本があり、そこで描かれた岩倉という人物と私とが一つになっていかないといけない。その部分がまだバラバラだったんです。そんな状態でセリフを覚えようとしてもまったく入らないんですね。心が入らないから丸覚えすらできない。

そこから格闘が始まりました(笑)。30分の仮眠をとっただけで24時間を費やしてもセリフが入ってこない。翌朝も続けて台本と取り組むのですが、まったくダメ。こんなことは初めてでしたから、精神的には非常に動揺しましたね。その日も深夜になり、『もうダメか』とあきらめかけて、もう一度、台本に向かったときに、ふっと私なりの岩倉像が見えてきたんです。そこからは少しずつセリフが入ってきて、明け方にはようやく『これでいける』と思えるようになりました。

私と台本の岩倉とが、だんだん一つに同化していくと声の質や音量も『こういうものだ』という答えが出てくる。だから、セリフも自然に入ってくるんです。ちょっと岩倉さんが憑依(ひょうい)しているという感じなんですね。それまでは精神がそこまでいっていなかったから、セリフもうわごとだったし、声も定まらないからつっかかるという悪循環。まさに言葉は“言霊(ことだま)”だと思いました。


岩倉という人は非常に頭の良かった方だと思いますね。想像力のある方なので、自分と異なる立場の人間の思い、あるいはさまざまな思想なども読み取れる。そのうえで策謀をめぐらし、なおかつシミュレーションをしたうえで何を選択していくのかということを考えていた。

ただ、そこまで頭が切れる分、本人にその気はないのでしょうが、非常に皮肉な言葉を発したり、相手を小馬鹿にしているかのような匂いが出てきてしまう。客観的に見たら皮肉であり嫌みだけれど、本人は本心を話しているだけだったりする(笑)。今回の岩倉を演じるにあたって意識したのは、そのへんの客観と主観という部分を見間違わないようにしようということでした。収録では、岩倉の世界でものを思い、その思想を信じて語るということだけに専念しています。撮り終わったシーンをモニターで見るとき、初めて岩倉を客観的に見るといった感じですね。

“公”の顔と“私”の顔、いわゆる公私の使い分けも興味深い。『日本国をよくしたい』という公の思いはもちろんあります。その一方、『名を成したい』という野心もある。本来の自分の欲を国のためだという言葉ですり替えていくこともあるかも知れない。その部分を表現できたら面白いなと思いますね。

実は京ことばがそんな表現をふくらませてくれるところもあるんですよ。うたうことができるというのかな。たとえば『甘おすなー』というセリフの抑揚ひとつで、岩倉の持っているちょっとした部分をぐわーんと大きく見せていくことができる。そんなふうに、ある部分はデフォルメしながら、私なりの岩倉具視を演じていけたらいいですね。

片岡鶴太郎かたおかつるたろう、1954年(昭和29年)12月21日 - )は、東京都荒川区西日暮里出身のタレント、俳優、歌手、プロボクサー、画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクション所属。東京都立竹台高等学校卒業。絵を描くときのみ左利き

高校卒業後、俳優を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し弟子入りを志願したが清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、最後には警察を呼ぶと言われ断念。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる

その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤彪と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子、たこ八郎等の真似で人気を博した

タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。また、岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。この番組では、岡本とは対等に渡り合っていた。

片岡鶴太郎 - Wikipedia
posted by 江〜篤姫 at 03:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。