2010年11月30日

NHK大河ドラマ篤姫:脚本・田渕久美子

江〜姫たちの戦国〜

★★★

内山理名主演で「篤姫」舞台化

11年度NHK大河ドラマは三代将軍・家光の生母・江(ごう)の生涯を描いた『江〜姫たちの戦国〜』に
高岡との離婚騒動でわかった!?宮崎あおいは「愛よりカネ」

★★★

NHK大河ドラマ篤姫・脚本:田渕久美子

コメンテーターとして活躍しそうな脚本家「田渕久美子」 2008年10月6日

「篤姫」第39回〜第46回&話題あれこれ

田渕久美子(たぶち くみこ、1959年6月28日 - )

島根県益田市出身の脚本家。島根県立益田高等学校、共立女子短期大学卒業。アイアンキャンドル(泰葉と共同で設立したが、両者でトラブルがあり事務所の運営から脱退)→ 株式会社矢島聰子事務所所属。

プログラマーとして働きながら、シナリオ作家協会のスクールに入る。その卒業作品「緑」が新藤兼人に評価され、その直後、一色伸幸から、アニメ「ミームいろいろ夢の旅」の依頼をうけ、これがデビュー作となった。

脚本家を目指したきっかけは、山田太一の脚本したドラマ「想い出づくり。」のテロップ「脚本 山田太一」の部分が自分の名前に見えた事から。
自分の作品は基本的に見ない。本人曰く「勝手に台詞の言い回しが変えられていると腹が立つ。精神安定のためになるべく見ないようにしている」。
パソコンのファイル整理が苦手で、使っているパソコンの画面はアイコンだらけである。取材で来ていた安住紳一郎曰く「新しいスクリーンセーバーかと思った」。
2009年1月23日、とくダネ!(フジテレビ系)にコメンテーターでの出演が予定されていたが、インフルエンザ罹患のため、キャンセルとなった

私生活では離婚歴があり、1992年に結婚した最初の夫とは1999年のクリスマスイブに“仕事のために”離婚。その後3年間は同居。2006年に再婚した2番目の夫とは「篤姫」放送中の2008年10月に死別。前夫との間に設けた1男1女の母でもある。
最初の夫との離婚の原因は、長女出産直後にあるドラマの打ち合わせの際にプロデューサーから「育児をしながら脚本が書けますか」と言われ、その事が頭に残っていた事から。また離婚の際も夫に、籍を入れたまま別居か、離婚して同居かの2択を提示し、夫は後者を選択、田渕は寛大な夫に感謝したという[1]。
2番目の夫は、田渕に篤姫脚本の際に歴史の事を教えるなど多大な協力をするが、篤姫が放送されて3ヵ月後、夫に体の不調が現れるが、大丈夫と言い張り病院に行かなかった。その後も夫の体の不調は悪くなり、篤姫終了後に病院に連れて行くが、末期の大腸癌と診断。夫の手術の日は篤姫の打ち上げパーティーがあり、功労者である田渕はどうしても抜ける事が出来ず、パーティー終了後すぐに駆けつけた。術後は夫との会話は筆談になり、最後は筆談で「愛しているよ」の言葉を残し亡くなった[1]。
田渕の長男は、田渕が執筆中で忙しい時には家事を替わりにやる。また長女を可愛がっており、長女を呼び出してはいじくり回して解放するという

株式会社矢島聰子事務所内プロフィール

田渕久美子 - Wikipedia

[ 篤姫脚本家 田淵久美子さんの意図] by 篤姫きらり旅
田淵久美子 - テレビドラマ人名録 - テレビドラマデータベース
篤姫と脚本の田淵久美子さん - ある40代女性の生活


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田渕久美子 プロフィール - goo ニュース
田渕久美子氏
正直、田渕久美子>>>>大森寿美男だと思う
田渕 久美子
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posted by 江〜篤姫 at 10:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト

一橋慶喜★平岳大(ひら・たけひろ)

<平岳大>大河「江」でヒロイン上野樹里の最初の夫に 「篤姫」では慶喜役

江〜姫たちの戦国〜

★★★

徳川慶喜役・平岳大は平幹二朗と佐久間良子の長男

NHK大河ドラマ篤姫

一橋慶喜(15代将軍・徳川慶喜)★平岳大(ひら・たけひろ)

徳川第15代将軍。篤姫は、養父斉彬から慶喜を次期将軍とするように大奥で政治工作をするように命じられる。しかし、篤姫は、どうしても慶喜本人に好印象を抱けなかった。大河ドラマ 篤姫

平岳大(ひら・たけひろ、1974年7月27日-)

父親は俳優の平幹二朗、母親は女優の佐久間良子。双子の兄として生まれた。妹がいる。15歳で渡米。アメリカのブラウン大学で応用数学を学び、その後コロンビア大学の大学院で学んだ。現地の企業で働いたこともあったが役者に転身、舞台『鹿鳴館』でデビューした。

★★★

一橋慶喜徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、とくがわ よしひさ)

江戸幕府第15代征夷大将軍(将軍在位:慶応2年(1866年)12月5日 - 慶応3年(1867年)12月9日)。
将軍としての執務を江戸城で行なわなかった唯一の将軍である。内大臣従一位勲一等公爵。貴族院議員。

将軍後見職として後見を務めていた14代将軍家茂の死去後、江戸幕府第15代将軍に就任。明治天皇に政権を返上した(=大政奉還)後、公武合体を目指すが、王政復古の大号令後の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍を残したまま大坂城から江戸城へ戻り、朝廷から追討令を受けて謹慎し、江戸城を無血開城した。明治に入り謹慎を解かれると趣味に没頭し、公爵として大正時代まで生きた。

天保9年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて9代藩主徳川斉昭の七男として生まれる

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定が病弱で男子を儲ける見込みがなかったので「将軍継嗣を誰にするか」という問題が浮上する(将軍継嗣問題)。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。

一橋派は島津斉彬の養女・篤姫を将軍・御台所として大奥に送り込むなどの擁立工作を行なうが、阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、「将軍継嗣は徳川慶福」と決した。

同年、井伊直弼は「勅許なく」日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に不時登城し直弼を詰問するが、逆に不時登城の罪を問われ、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは、取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている。

★★★

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除される。以後は政治には携わらず、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくる。

明治30年(1897年)、東京・巣鴨に移り住む。翌年には皇居に参内して明治天皇に拝謁する。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、宗家とは別に徳川慶喜家を興す。

明治43年(1910年)に家督を慶久に譲り隠居。大正2年(1913年)、肺炎にて死去。享年77歳(満76歳0ヶ月25日)は歴代将軍の中で最長命。

★★★

父・斉昭と同じく薩摩藩の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま・豚肉がお好きな一橋様の意)と呼ばれた。

また、西洋の文物にも関心を寄せ晩年はパンとミルクを好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・手芸(刺繍)などの趣味に興じる。将軍時代には西周からフランス語を習ったこともあったようだが、こちらは挫折した。

カメラマンとしては有名であるが、カメラ撮影の技術は上達しなかったようである。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかったという。なお曾孫・徳川慶朝もフリーのカメラマンであり、彼により慶喜が撮影したものも含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真が発見され、整理、編集を行なった上で出版されている。こうした趣味人生活の友であったのが実弟・昭武であった。

徳川慶喜 - Wikipedia

posted by 江〜篤姫 at 04:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト
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