2008年06月15日

堀田正睦(ほったまさよし):辰巳拓郎

NHK大河ドラマ篤姫

堀田正睦(ほったまさよし)★辰巳拓郎

老中。蘭学を非常に好み、「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれた。開国論を主導し、阿部のあとを継いで老中首座となった。日米修好通商条約の勅許を得るために京にのぼるが、攘夷派に牛耳られた朝廷は勅許を与えようとしなかった大河ドラマ 篤姫

★★★

正篤は、藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど、蘭学好きであったことから、「蘭癖」と呼ばれた。幕末においては、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。その後、安政2年(1855年)に阿部正弘の推挙を受けて再び老中になる。そして正弘から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねた。安政3年(1856年)、島津家から将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。

安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の許可を得ようとするが、天皇が攘夷派であり、失敗する。

一方、同年、第13代将軍・徳川家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦はもともと水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の徳川慶喜にも好感が持てず、心情的には徳川慶福が第14代将軍に相応しいと考えていたふしがある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対にあって勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋ひいきの朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では、南紀派から一橋派に路線を変えた。

しかし正睦が上洛中に、松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊は堀田をはじめとする一橋派の排斥を始め、老中職を罷免された。そのため、安政6年(1859年)、家督を4男の堀田正倫に譲って隠居した。ただし、井伊は時機を見ての堀田の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。だが、これはかえって堀田と井伊が結んだという憶測を招き、桜田門外の変後の文久2年(1862年)に謹慎処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされた。

元治元年(1864年)3月21日に死去。享年55。

堀田正睦 - Wikipedia


posted by 江〜篤姫 at 20:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト
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