2008年06月22日

大久保利通(正助)・原田泰造

NHK大河ドラマ篤姫

大久保利通(正助)原田泰造

薩摩藩の下級武士の家に生まれ、西郷吉之助(隆盛)(小澤征悦)
と兄弟のように親しく育つ。

お家騒動に巻き込まれ若い時に謹慎生活を送るが、のちに島津久光に見出され、明治維新を成し遂げるために大活躍する。

薩摩時代の篤姫にとって、尚五郎西郷大久保は、青春を一緒に過ごした友人として深い絆で結ばれることになる。
大河ドラマ 篤姫

NHK大河ドラマ篤姫第25回「母の愛情」

★★★

原田泰造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原田 泰造(はらだ たいぞう、男性、1970年3月24日-)は、お笑いトリオ・ネプチューンのメンバーで、お笑いタレント、俳優、ナレーターである。ボケ担当。愛称は「タイゾー」。ワタナベエンターテインメント所属。血液型はB型。東村山市立第四中学校−東京都立農芸高等学校卒業。 身長177cm,体重75kg 男の子、女の子の2児の父。 姉と弟が1人ずついる。

1990年高校時代の友達を誘い、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)に入社。「パープルン」を結成しデビュー。しばらく活動していたが、相方が多額の借金を作り地元に帰ってしまい解散。
新しい相方を探していたところ、オーディション時に一緒で、当時ピンで活動していた堀内健に目が止まり、原田から声をかけ、1991年に堀内と「フローレンス」を結成。
1993年に元ジュンカッツで先輩の名倉潤が加入して、ネプチューンを結成。
1995年、現在の妻と結婚後、同じ都内の東村山市に家を建て、そこに在住。結婚の事実を公表しないまま、1998年に妻子持ちである事が発覚。ブレイクする前に結婚したため誰も知らなかったとの事。現在、2人の子供を持つ。
2000年に『編集王』(フジテレビ系列)でテレビドラマで初主演を務め、その後も多くの作品に出演。2004年公開の『ジャンプ』では映画初主演も果たした。
2005年7月、舞台「キスへのプレリュード」に主役で出演、これにより同年度の第43回ゴールデン・アロー賞・新人賞を受賞(尚、その7年前にはネプチューンとして同・芸能賞(現在の放送賞バラエティ部門)を受賞したことがある)。
2006年4月から、NHK教育テレビで放送開始の『一期一会 キミにききたい!』のナレーションを務めるなど、芸の幅は更なる広がりを見せている原田泰造 - Wikipedia

古畑中学生・古畑任三郎生涯最初の事件・任三郎の理解ある??教師役


★★★

大久保利通

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

大久保 利通おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士、政治家。位階勲等は従一位勲一等。

維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる

文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。

15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。

弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小納戸役に異例の抜擢、家格も一代新番となる。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。

慶応元年(1865年)、利通と改名する。

久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。


[明治維新後]
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平らと対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年、台湾出兵を行い9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡り、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。

明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。

明治10年(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園。


[余録]
趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、指宿煙草というキツいものを愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだったという(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。

官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、三年町に西洋風の豪邸を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残ったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

口数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったといわれる。
大久保利通 - Wikipedia



posted by 江〜篤姫 at 09:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト
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