2008年11月24日

幾島

NHK大河ドラマ篤姫

幾島・松坂慶子

幾島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幾島いくしま、文化5年6月18日(1808年7月11日) - 明治3年4月26日(1870年5月26日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院付きの御年寄。本姓は朝倉、名は糸。父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。母は秋田藩士、阿比留軍吾の娘・民。

藤田と名乗り、島津斉宣の娘で近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの女中として、ともに京都の近衛邸で過ごした。嘉永3年(1850年)に郁姫が亡くなると出家して得浄院と号し、近衛忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていた。

その後、薩摩藩主島津斉彬の養女島津篤子を近衛忠煕の養女として徳川家定に嫁がせる事が決まり、幾島と改名して篤子付きとなり、大奥に入るまでの間は教育係などを受け持っていた。その後、近衛家の家士今大路孝由の娘として天璋院と共に大奥に入ったという。大奥では、江戸城と薩摩藩との情報連絡役としても活動し、西郷隆盛を通して江戸藩邸の奥老女小ノ島と連絡をとりあい、将軍継嗣問題や薩摩藩との連携の際に重要な役目を果たした。

なお幾島の家元は、後に今大路氏から島津氏に変わっている。元治元年(1864年)に体調を崩す。翌年までは大奥での所在を確認できるが、後に京都の近衛邸で余生を過ごそうと[要出典]大奥を隠退するが、明治元年(1868年)大奥に戻って戊辰戦争の際に天璋院の使者として討幕派の薩摩軍に交渉に出向き、江戸城の無血開城にも尽力したとされる。

明治維新から2年後の1870年。63歳で東京にて死去。島津家菩提寺である大圓寺(東京)に葬られた。なお、幾島招魂碑は弟が建立し、鹿児島の朝倉家墓地にある

幾島は公家の養女として大奥入りしながらも、上臈ではなく御年寄の職に就いていた。なお、奥女中分限帳の篤子付き女中の一覧には、幾島の名は存在しない。代わりに「つぼね(局)」という御年寄の名が記されており、このつぼねは今大路孝由に所縁のある女中とされていることから幾島であろうと推定される。

幾島の出自・生没年や埋葬地は従来不明とされてきたが、2008年、鹿児島市の唐湊墓地にある幾島招魂墓を調査し(朝倉家子孫はその墓の存在を知っていたが調査はしていなかった)、墓の刻銘から生没年などが判明した[1]。 なお、同墓の刻銘に、幾島とは別の生没年(文化7年生、明治11年没)も記されていたが、これは招魂碑を建立した幾島の弟・朝倉景春の生没年と推定される。

幾島 - Wikipedia

篤姫付老女「幾島」 薩摩藩士の娘、63歳で死去
鹿児島市の招魂墓に記録


篤姫(天璋院)が島津家から13代将軍徳川家定に嫁いだ際、篤姫付の老女として江戸城大奥に入った「幾島(いくしま)」の招魂墓が、鹿児島市唐湊2丁目の唐湊墓地に残っていることが14日までに分かった。不明だった出自や生没年などが碑文に記され、尚古集成館の寺尾美保学芸員は「基礎情報がそろうことで、幾島の実像に迫ることができる」と話している。
 墓石は六角柱で、台座を含めた高さは約1.2メートル。正面に「朝倉氏幾島君招魂墓」とあり、幾島の事跡などが別の面に刻まれている。碑文によると、幾島は1808(文化5)年6月18日、薩摩藩士の娘として生まれた。70(明治3)年4月26日、63歳で東京で没し、島津家の菩提寺大円寺(東京都)に葬られた。父は薩摩藩で御側用人(おそばようにん)を務めた「朝倉景矩(孫十郎)」、母は秋田藩家臣「阿比留軍吾」の娘「民」。13歳の時に、島津家から京都の公家近衛家に嫁いだ郁(いく)姫の女中となった。
 招魂墓は朝倉家先祖代々の墓などと共に建つ。墓碑を調査している鹿児島大学職員友野春久さん(56)=同市=が3年前に碑文を記録。資料整理し、幾島の招魂墓に気付いた。幕末の絵図では、現在の同市長田町の屋敷に朝倉家の名がみられる。
 同家の子孫、朝倉康光さん(59)=宮崎市=は「祖父の代に鹿児島から宮崎に移った。(幾島の)墓の存在は知っていたが調査はしていなかった。みなさんに広く見てほしい」と話している。

★★★



posted by 江〜篤姫 at 03:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 幾島
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