2008年11月24日

岩倉具視(片岡鶴太郎)

NHK大河ドラマ篤姫

岩倉具視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩倉具視いわくらともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)7月20日)は日本の公家、政治家。源通親の子孫。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。正一位・大勲位。

公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。幼いころの幼名は周丸であったが、同じ公家の子女達の間では「岩吉」(庶民の子供によく見られた名前)と呼ばれていた。容姿や言動が公家らしいおっとりさがなく、異彩を放っていたためという。幼いころから朝廷儒学者伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。

天保9年(1838年)8月8日、満13歳のときに岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい、「岩倉具視」となった。10月28日に叙爵。12月11日に元服するとともに昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し100俵の役料を受けた。

岩倉家の家格は、村上源氏久我家の江戸時代の分家であるので、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる下級の公家である。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元として免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も特になかったので家計は、大多数の公家同様常に裕福ではなかったという

嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。

安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しが、これに対して多くの公卿・公家から批判がなされた。

岩倉も条約調印に反対の立場であり、公家仲間の大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議する阻止行動を起こした。これを聞いた九条関白は病と称して参内を辞退したが、岩倉は諦めず御所を出るとすぐに九条邸に赴き、関白との面会を申し込んだ。九条家の家臣たちは病を理由に拒否したが、岩倉は面会できるまで動かなかったので、とうとう関白は折れて明日必ず返答すると家臣を通じて岩倉に伝え、岩倉を納得させた。岩倉が漸く九条邸を去ったときには午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。岩倉のはじめての政治運動であり、政治的勝利であった。

政5年(1858年)6月19日、幕府大老・井伊直弼が天皇の勅許無きまま独断で日米修好通商条約を締結。27日に老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。この頃の岩倉は対象が武士階級にとどまっている安政の大獄が皇室や公家階級にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。そのため京都所司代・酒井忠義や伏見奉行内藤正縄などと会談し、彼らに自分が理解する天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過であることを説いた。この後、公家からも隠居・蟄居処分にされる者が出ており結果的には会談の成果はなかったが、このとき岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りのままだった。

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士らの手により暗殺された後、安政の大獄は収束して再び朝廷との融和を目指す公武合体派が幕府内で盛り返した

岩倉具視 - Wikipedia

安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。
そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる。(和宮降嫁)
岩倉は、攘夷決行と条約破棄を条件に孝明帝の了承を得、和宮の江戸下向の列に加わった。
岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、文久2年(1862)8月、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。

不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。
中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。

その間、岩倉の意思を受けた中御門経之、大原重徳らが、佐幕派公卿の辞官と岩倉らの復帰を建言するが、かえって孝明天皇の怒りを買い、追放されてしまう。
慶応3年(1867)正月、明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり追放された公家達の復帰が赦される。
岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。
そして、文久3年(1863)の8月18日の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年10月、薩長に対し討幕の密勅を下した。
幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。
12月9日、薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。
その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼いの天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。

その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める

明治4年(1871)、右大臣になると、11月、条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
岩倉使節団は、異国の文化に戸惑いながら外交を展開していくが、元々新政府内の覇権争いで不仲だった大久保・伊藤博文と木戸孝允の亀裂などで、空中分解寸前だった。

帰国後は、留守を任されていた西郷隆盛らにより征韓が閣議決定されていたが、これを拒否した。
それに怒った西郷は辞表を提出し鹿児島へ帰る(明治六年の政変)。そして西南戦争へと繋がっていく。

明治6年(1874)には赤坂喰違で土佐士族・武市熊吉らに襲撃されたが、辛うじて命を拾った。

その後は、板垣退助らによる自由民権運動の抑圧、国憲編纂に苦慮する。

明治十四年(1881)年、伊藤博文らと図り参議・大隈重信を政界から追放する。

伊藤が憲法の研究のため渡独中の明治16年(1883)7月20日、胃がんをの為、病没。
享年59。

幕末維新人物名鑑・岩倉具視

岩倉具視・・片岡鶴太郎さんインタビュー

大河ドラマ出演は4回目になりますが、今回ほど切実な危機感を抱きながら(笑)、収録に臨んだのは初めてです。それというのも、まだ自分の中で岩倉具視をどういうふうにつくっていこうかと模索している段階で、非常に重要なシーンの収録を先に行うことになってしまったからです。

もちろん、歴史上の人物ですから資料等でつくり上げたイメージはありました。ただ、ドラマの場合は台本があり、そこで描かれた岩倉という人物と私とが一つになっていかないといけない。その部分がまだバラバラだったんです。そんな状態でセリフを覚えようとしてもまったく入らないんですね。心が入らないから丸覚えすらできない。

そこから格闘が始まりました(笑)。30分の仮眠をとっただけで24時間を費やしてもセリフが入ってこない。翌朝も続けて台本と取り組むのですが、まったくダメ。こんなことは初めてでしたから、精神的には非常に動揺しましたね。その日も深夜になり、『もうダメか』とあきらめかけて、もう一度、台本に向かったときに、ふっと私なりの岩倉像が見えてきたんです。そこからは少しずつセリフが入ってきて、明け方にはようやく『これでいける』と思えるようになりました。

私と台本の岩倉とが、だんだん一つに同化していくと声の質や音量も『こういうものだ』という答えが出てくる。だから、セリフも自然に入ってくるんです。ちょっと岩倉さんが憑依(ひょうい)しているという感じなんですね。それまでは精神がそこまでいっていなかったから、セリフもうわごとだったし、声も定まらないからつっかかるという悪循環。まさに言葉は“言霊(ことだま)”だと思いました。


岩倉という人は非常に頭の良かった方だと思いますね。想像力のある方なので、自分と異なる立場の人間の思い、あるいはさまざまな思想なども読み取れる。そのうえで策謀をめぐらし、なおかつシミュレーションをしたうえで何を選択していくのかということを考えていた。

ただ、そこまで頭が切れる分、本人にその気はないのでしょうが、非常に皮肉な言葉を発したり、相手を小馬鹿にしているかのような匂いが出てきてしまう。客観的に見たら皮肉であり嫌みだけれど、本人は本心を話しているだけだったりする(笑)。今回の岩倉を演じるにあたって意識したのは、そのへんの客観と主観という部分を見間違わないようにしようということでした。収録では、岩倉の世界でものを思い、その思想を信じて語るということだけに専念しています。撮り終わったシーンをモニターで見るとき、初めて岩倉を客観的に見るといった感じですね。

“公”の顔と“私”の顔、いわゆる公私の使い分けも興味深い。『日本国をよくしたい』という公の思いはもちろんあります。その一方、『名を成したい』という野心もある。本来の自分の欲を国のためだという言葉ですり替えていくこともあるかも知れない。その部分を表現できたら面白いなと思いますね。

実は京ことばがそんな表現をふくらませてくれるところもあるんですよ。うたうことができるというのかな。たとえば『甘おすなー』というセリフの抑揚ひとつで、岩倉の持っているちょっとした部分をぐわーんと大きく見せていくことができる。そんなふうに、ある部分はデフォルメしながら、私なりの岩倉具視を演じていけたらいいですね。

片岡鶴太郎かたおかつるたろう、1954年(昭和29年)12月21日 - )は、東京都荒川区西日暮里出身のタレント、俳優、歌手、プロボクサー、画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクション所属。東京都立竹台高等学校卒業。絵を描くときのみ左利き

高校卒業後、俳優を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し弟子入りを志願したが清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、最後には警察を呼ぶと言われ断念。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる

その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤彪と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子、たこ八郎等の真似で人気を博した

タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。また、岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。この番組では、岡本とは対等に渡り合っていた。

片岡鶴太郎 - Wikipedia


posted by 江〜篤姫 at 03:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト
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