2011年06月28日

お近・ともさかりえ

スネオヘアー&ともさかりえ「晴れて夫婦となりました」

スネオヘアー、噂のともさかりえと2ショットで結婚絡みのジョーク
ともさかりえ、再婚報道後初の公の場も語らず

9/27〜てっぱん

西尾冬美ともさか りえ
初音の下宿人で、自称「スーパーモデルのジェシカ」。しかしその実態は、スーパーの広告チラシのモデルで、普段はうどん屋のアルバイト店員である。新潟県の出身で華やかな都会に憧れ上京、原宿でスカウトされた過去を持つ。初音の家に現れたあかりを、商店街ブラスバンドのトランペッターの代理として、強引にコンサートに出演させるが、このことがあかりの就職のきっかけとなる。

ドラマトピックスブログ:NHKブログ | 連続テレビ小説

ともさかりえ、再婚報道後初の公の場も語らず
ともさかりえ“再婚報道”に所属事務所「本人に任せています」

★★★2009.4.19

4月19日スタートはオダギリジョー長澤まさみが兄弟を演じるヒューマンドラマ「ぼくの妹」・・第1話:趣味のサイクリングを楽しんでいた盟(オダギリジョー)は、ケータリング会社で働く里子(ともさかりえ)と衝突。里子(ともさかりえ)に怪我を負わせたうえ、配達中の料理をだいなしにしてしまう・・

◆桐原里子(ともさかりえ):ケータリング会社で働く

★★★

ともさかりえ離婚後も元夫とラブラブ関係?
2009年3月18日(水)11時1分配信 ココログニュース

昨年の大みそかに自らの公式ブログで、舞台演出家・俳優の河原雅彦との離婚を発表した女優のともさかりえ。「綺麗事ゼロで想い全部吐き出したら、柔らかい気持ちだけが残ったのです。お互いに大好きでいるためのサヨナラを」と、他人には不可解な別れだった。ともさかの言葉を裏付けるかのように、2ヵ月半経った今も、奇妙なラブラブ関係がつづいていることが、二人のブログからうかがえる。

先月25日のともさかのブログには、元夫と三人で鮨屋で食事した円満ぶりが綴られている。「息子に『まま と ぱぱ は おはなし が だいすきね〜』と指摘されるくらい、ゲラゲラ笑ってよく喋ります。私としては、これだけ笑い合えるからこそ離婚の意味があったと改めて」とオノロケが。「心から満足。いやはや〜ごちそうさまでした!元夫!このメンバーだと必ず私が運転担当なので、帰り道は爆睡の後部座席に笑いつつペトロールズ聴きながらドライブ」と、どう見ても幸せな家族だ。

同日の河原のブログにも、ともさかが「3月15日に幼稚園でお楽しみ会があって、またお父さん達で劇の発表会(桃太郎)があるんだけど、アンタ、どう?」と尋ねる、まるで夫婦のような会話が綴られている。他人にはなんとも不可解だが、ご当人たちが幸せなら、まっ、いっか?

(天風)

★★★

悩みを打ち明ける「ともさかりえ」は大丈夫か

お近・(ともさかりえ

小松清猷の妹。香道を通じて篤姫と仲良くなり、なんでも相談しあえる姉のような存在となる。兄・清猷が若くして亡くなったあと、7歳年下の尚五郎を婿に迎えて結婚し小松の家を守ることになる。夫婦生活は円満であったが子どもには恵まれなかった。尚五郎の死後、側室・お琴の子を養子に迎え、大切に育て上げた。大河ドラマ 篤姫

NHK大河ドラマ篤姫第18回「斉彬の蜜命」
尚吾郎瑛太)は お近ともさかりえ)は夫婦になりました

◆「だんなさま・・・国を思うのも大切でしょう・・広い世界に目を向けるのも立派だと思います。
けれども、
ご領地に住む領民たちのことも考えていただきたいと思います。

日本国は諸侯が支え、諸侯を支えるのは領地にございます。足元を忘れては、領地は、やがては国が滅びるのではありませんか・・・
考え方の順序を間違えていると思います。
それがわからないのなら、離縁してくださいませ!!!!」
NHK大河ドラマ篤姫第23回「器くらべ」その2・慶福(松田翔太)登場:NHK大河ドラマ「篤姫」

★★★

ともさかりえ(本名;河原 理恵(旧姓;友坂)、1979年10月12日 - )東京都三鷹市出身(出生は長野県長野市)の女優、歌手、タレント。イトーカンパニー所属。身長168cm、血液型はA型。父は美容師。堀越学園高校卒業、帝京大学文学部国際文化学科中退。夫は演出家で俳優の河原雅彦。

●1992年にトヨタ自動車のテレビコマーシャルでCMデビューする。また1996年には『エスカレーション』や『くしゃみ』を発売し歌手デビューする。

●1996年から1997年にかけてさかともえり名義で『好きになったらキリンレモン』『どっちでもIn』などをリリースしている。
女優業では1996年の『金田一少年の事件簿』が大人気となり、広く世間に知られるきっかけとなった。

●1999年10月22日号の「婦人公論」のインタビューにて、自らの拒食症を告白している。精神不安、栄養失調などの過去を告白している。

●2003年4月に、舞台演出家で俳優の河原雅彦と結婚。2004年10月に第1子(長男)を出産。自宅出産。

●2006年6月に公式ブログであるともさかりえのオフィシャルブログを開設した。ブログでは子供のことや食べ物のことなどを軽妙な文体で紹介している。2007年9月には月間ページビュー数で約3000万件という驚異的な数字を記録し、ブログの達人として注目されている。

●出演ドラマ

北条時宗(2001年, NHK)

ロッカーのハナコさん(2002年8-10月, NHK)

すいか(2003年7-9月, 日本テレビ)

帰ってきたロッカーのハナコさん(2003年10-11月, NHK)

暴れん坊ママ(2007年10-12月, フジテレビ)

篤姫(2008年, NHK) ‐ 小松千賀 役

ともさかりえオフィシャルブログ

ともさかりえ、ブログ3000万ヒット「怖いです」
ともさか夫妻、コミュニケーションはネットで


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2010年11月30日

NHK大河ドラマ篤姫:脚本・田渕久美子

江〜姫たちの戦国〜

★★★

内山理名主演で「篤姫」舞台化

11年度NHK大河ドラマは三代将軍・家光の生母・江(ごう)の生涯を描いた『江〜姫たちの戦国〜』に
高岡との離婚騒動でわかった!?宮崎あおいは「愛よりカネ」

★★★

NHK大河ドラマ篤姫・脚本:田渕久美子

コメンテーターとして活躍しそうな脚本家「田渕久美子」 2008年10月6日

「篤姫」第39回〜第46回&話題あれこれ

田渕久美子(たぶち くみこ、1959年6月28日 - )

島根県益田市出身の脚本家。島根県立益田高等学校、共立女子短期大学卒業。アイアンキャンドル(泰葉と共同で設立したが、両者でトラブルがあり事務所の運営から脱退)→ 株式会社矢島聰子事務所所属。

プログラマーとして働きながら、シナリオ作家協会のスクールに入る。その卒業作品「緑」が新藤兼人に評価され、その直後、一色伸幸から、アニメ「ミームいろいろ夢の旅」の依頼をうけ、これがデビュー作となった。

脚本家を目指したきっかけは、山田太一の脚本したドラマ「想い出づくり。」のテロップ「脚本 山田太一」の部分が自分の名前に見えた事から。
自分の作品は基本的に見ない。本人曰く「勝手に台詞の言い回しが変えられていると腹が立つ。精神安定のためになるべく見ないようにしている」。
パソコンのファイル整理が苦手で、使っているパソコンの画面はアイコンだらけである。取材で来ていた安住紳一郎曰く「新しいスクリーンセーバーかと思った」。
2009年1月23日、とくダネ!(フジテレビ系)にコメンテーターでの出演が予定されていたが、インフルエンザ罹患のため、キャンセルとなった

私生活では離婚歴があり、1992年に結婚した最初の夫とは1999年のクリスマスイブに“仕事のために”離婚。その後3年間は同居。2006年に再婚した2番目の夫とは「篤姫」放送中の2008年10月に死別。前夫との間に設けた1男1女の母でもある。
最初の夫との離婚の原因は、長女出産直後にあるドラマの打ち合わせの際にプロデューサーから「育児をしながら脚本が書けますか」と言われ、その事が頭に残っていた事から。また離婚の際も夫に、籍を入れたまま別居か、離婚して同居かの2択を提示し、夫は後者を選択、田渕は寛大な夫に感謝したという[1]。
2番目の夫は、田渕に篤姫脚本の際に歴史の事を教えるなど多大な協力をするが、篤姫が放送されて3ヵ月後、夫に体の不調が現れるが、大丈夫と言い張り病院に行かなかった。その後も夫の体の不調は悪くなり、篤姫終了後に病院に連れて行くが、末期の大腸癌と診断。夫の手術の日は篤姫の打ち上げパーティーがあり、功労者である田渕はどうしても抜ける事が出来ず、パーティー終了後すぐに駆けつけた。術後は夫との会話は筆談になり、最後は筆談で「愛しているよ」の言葉を残し亡くなった[1]。
田渕の長男は、田渕が執筆中で忙しい時には家事を替わりにやる。また長女を可愛がっており、長女を呼び出してはいじくり回して解放するという

株式会社矢島聰子事務所内プロフィール

田渕久美子 - Wikipedia

[ 篤姫脚本家 田淵久美子さんの意図] by 篤姫きらり旅
田淵久美子 - テレビドラマ人名録 - テレビドラマデータベース
篤姫と脚本の田淵久美子さん - ある40代女性の生活


田渕久美子 泰葉 谷村新司 トラブル ブログ 炎上【Choix】
田渕久美子 プロフィール - goo ニュース
田渕久美子氏
正直、田渕久美子>>>>大森寿美男だと思う
田渕 久美子
田渕久美子の出演時間
田渕久美子とは - はてなキーワード
田渕久美子
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一橋慶喜★平岳大(ひら・たけひろ)

<平岳大>大河「江」でヒロイン上野樹里の最初の夫に 「篤姫」では慶喜役

江〜姫たちの戦国〜

★★★

徳川慶喜役・平岳大は平幹二朗と佐久間良子の長男

NHK大河ドラマ篤姫

一橋慶喜(15代将軍・徳川慶喜)★平岳大(ひら・たけひろ)

徳川第15代将軍。篤姫は、養父斉彬から慶喜を次期将軍とするように大奥で政治工作をするように命じられる。しかし、篤姫は、どうしても慶喜本人に好印象を抱けなかった。大河ドラマ 篤姫

平岳大(ひら・たけひろ、1974年7月27日-)

父親は俳優の平幹二朗、母親は女優の佐久間良子。双子の兄として生まれた。妹がいる。15歳で渡米。アメリカのブラウン大学で応用数学を学び、その後コロンビア大学の大学院で学んだ。現地の企業で働いたこともあったが役者に転身、舞台『鹿鳴館』でデビューした。

★★★

一橋慶喜徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、とくがわ よしひさ)

江戸幕府第15代征夷大将軍(将軍在位:慶応2年(1866年)12月5日 - 慶応3年(1867年)12月9日)。
将軍としての執務を江戸城で行なわなかった唯一の将軍である。内大臣従一位勲一等公爵。貴族院議員。

将軍後見職として後見を務めていた14代将軍家茂の死去後、江戸幕府第15代将軍に就任。明治天皇に政権を返上した(=大政奉還)後、公武合体を目指すが、王政復古の大号令後の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍を残したまま大坂城から江戸城へ戻り、朝廷から追討令を受けて謹慎し、江戸城を無血開城した。明治に入り謹慎を解かれると趣味に没頭し、公爵として大正時代まで生きた。

天保9年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて9代藩主徳川斉昭の七男として生まれる

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定が病弱で男子を儲ける見込みがなかったので「将軍継嗣を誰にするか」という問題が浮上する(将軍継嗣問題)。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。

一橋派は島津斉彬の養女・篤姫を将軍・御台所として大奥に送り込むなどの擁立工作を行なうが、阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、「将軍継嗣は徳川慶福」と決した。

同年、井伊直弼は「勅許なく」日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に不時登城し直弼を詰問するが、逆に不時登城の罪を問われ、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは、取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている。

★★★

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除される。以後は政治には携わらず、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくる。

明治30年(1897年)、東京・巣鴨に移り住む。翌年には皇居に参内して明治天皇に拝謁する。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、宗家とは別に徳川慶喜家を興す。

明治43年(1910年)に家督を慶久に譲り隠居。大正2年(1913年)、肺炎にて死去。享年77歳(満76歳0ヶ月25日)は歴代将軍の中で最長命。

★★★

父・斉昭と同じく薩摩藩の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま・豚肉がお好きな一橋様の意)と呼ばれた。

また、西洋の文物にも関心を寄せ晩年はパンとミルクを好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・手芸(刺繍)などの趣味に興じる。将軍時代には西周からフランス語を習ったこともあったようだが、こちらは挫折した。

カメラマンとしては有名であるが、カメラ撮影の技術は上達しなかったようである。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかったという。なお曾孫・徳川慶朝もフリーのカメラマンであり、彼により慶喜が撮影したものも含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真が発見され、整理、編集を行なった上で出版されている。こうした趣味人生活の友であったのが実弟・昭武であった。

徳川慶喜 - Wikipedia

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2010年09月02日

滝山・稲森いずみ

坂口憲二が天才外科医を演じる人気作が3年ぶりに登場。
;">『医龍 Team Medical Dragon3』

胸部心臓外科医:加藤晶・・腕のたつ心臓外科医。大学医療を改革するためごろつきだった朝田をスカウトした張本人

★★★2009.4.29

稲森いずみ「愛してる」と言葉で伝えよう
稲森いずみさん(アイシテル〜海容〜)★役を通して家族を考える


4月15日(水)午後10時スタートは「アイシテル海容〜」。原作は伊藤実による同名コミック。少年が少年をあやめる事件を、加害者の母親の目線から描くヒューマンドラマ。主人公は、子育ての責任問題や、被害者家族と微妙な関係など、すべてを受け止めて向き合っていく

少年犯罪をテーマに、加害者と被害者の母親の心の交流と家族の愛を描く。

◆野口さつき(稲森いずみ):家族のために一生懸命生きてきた普通の主婦。息子が殺人を犯してしまう。

★★★

2008.5.4

滝山・(稲森いずみ

大奥御年寄り。家定、家茂、慶喜の3代にわたり、1000人を超える大奥女中の総取締り役をつとめた。井伊直弼の大老就任にも力を振るったと言われ、篤姫とは激しく対立することになる。大河ドラマ 篤姫

稲森いずみ(いなもり いずみ、本名:稲森泉、1972年3月19日 - )は、日本の女優。バーニングプロダクション所属。鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島市立天保山中学校(アナウンサーの近藤久美子と同級生)、鹿児島高等学校卒。テキサス大学アーリントン校(ESL)に留学歴あり。血液型B型。

1991年5月、叔母に勧められて地元・鹿児島高等学校の卒業後、アメリカ・ダラスのテキサス大学アーリントン校に語学留学。

1992年10月、弟が交通事故に遭い、急遽1年半の留学生活を終え、帰国。同時に、「モデルをやりたい」という自らの意思で東京の大手モデルプロダクション・エリートフォリオと契約。契約直後から、地元でもある鹿児島で本格的にモデル活動を始め、雑誌でも度々掲載される。

1994年、前事務所「エリートフォリオ」より2年あまりの契約で現在のバーニングプロダクション移籍。『上を向いて歩こう!』で念願の女優デビュー・連続ドラマ初出演を果たし、注目される。デビュー作以後、数え切れないほどの雑誌のインタビューを受け、この効果からか、フジテレビビジュアルクイーンに輝き、『Fiction』では水着姿を披露するなど様々な撮影にも挑み、大胆な女優として世に知られる。

1998年、『ハッピーマニア』で地上波初主演。

2005年、大河ドラマ『義経』に大河ドラマ初出演。4月から、『曲がり角の彼女』(フジテレビ主演は『ハッピーマニア』以来7年ぶり)、年末には、『河井継之助 駆け抜けた蒼竜』に出演。また、藤原紀香との合同写真が台湾選挙で無断使用され、波紋を広げた。

2007年1月2日、『義経』での好演が光り、テレビ東京系列の新春ワイド時代劇『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』に時代劇初主演。この作品が反響を呼んだのか、10月12日に「第一回 国際ドラマフェスティバル in TOKYO 2007」で特別招待作品として上映された(後述の『華麗なる一族』も上映)。1月14日からTBS系の『華麗なる一族』にも出演。

2008年、『篤姫』に、大奥女中を1000人を従えた瀧山役で出演。大河ドラマの出演は、『義経』以来3年ぶりで、秋には、尾上菊之助主演『探偵事務所5 コードブレイカー507 上海円舞曲(ワルツ)』にヒロイン・美蘭(メイラン)役で公開を控えている。映画出演は『リリィ・シュシュのすべて』以来7年ぶり、本作品の監督である林海象とは『CAT'S EYE』以来約10年ぶりにタッグを組む。

抜群のスタイルと完璧な演技力が好評を呼び、悪役から仕事ができる女までと彼女の役柄には何れも定評があるのが特徴的。 ブレイク前は、ヒロインの恋敵か悪女役を演じることが多かった。(『29歳のクリスマス』では仲村トオルを巡り山口智子と激しいバトルを繰り広げる役を演じ、『オンリー・ユー〜愛されて〜』では鈴木京香に嫌がらせをするモデル役)。しかし、その後は一風変わって『ロングバケーション』や『ハッピーマニア』といった、明るい天然キャラを演じるのが多くなる。

稲森いずみ - Wikipedia
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2009年04月02日

NHK連続テレビ小説『つばさ』高木加え乃子

NHKテレビ小説「つばさ」、初回視聴率は17・7%

娘役の多部を溺愛?母・高畑淳子もうっとり

NHK連続テレビ小説つばさ」 NHK総合 毎週月〜土曜 前8:15〜8:30

■ 10年間、家を家族を捨てていた母が戻ってきた。母代わりをしていたつばさの青春を描く

和菓子屋『甘玉堂』のつばさは短大を卒業したら祖母の跡を継いでおかみになりたいと考えるしっかり者。10年前に母・加乃子が家出をし、以来主婦役を引き受けてきたつばさにとって、一番大切なのは“家族と店”だった。ところが、突然“不肖の母”が借金とともに舞い戻り、それが元で一家は江戸時代から続く老舗を手放すことに……。奔放な母と働き者の娘は、「娘が母」で「母が娘」のあべこべ。そんな母娘が巻き起こす、笑いと涙の物語。

母・高木加乃子高畑淳子

つばさの母。幼いころから『甘玉堂』の跡取りとして厳しく育てられた反動か、40歳の時、殺虫剤のCMモデルに抜擢されたのがキッカケで、遅れてきた思春期に突入。ナント子どもを残して家を出てしまう……!以降、ダイエット本の出版や通販グッズの開発など、思いつくまま事業を起こすも、ことごとく失敗。多額の借金を背負い、ついに実家へ舞い戻ってくる。照れ隠しなのか、本性なのか、10年ぶりの同居生活で自由奔放、傍若無人に振る舞い、つばさを波乱の日々に突き落とす。連続テレビ小説「つばさ」

大河ドラマ篤姫で家定の母・本寿院を熱演中・高畑淳子さん「スタジオパークからこんにちは」に登場

★★★

高畑淳子(たかはた あつこ、1954年10月11日 - )は香川県善通寺市出身、高松市育ちの女優、声優。劇団青年座所属。

身長163cm。体重53kg。血液型はA型。特技は、英語と水泳。長女と長男の3人家族。二度の離婚歴があり、彼女自身は一人っ子(厳密には弟が死産であるため兄弟はいる)である。高松市立桜町中学校、香川県立高松高等学校卒業。演技を学ぶため桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻へ進学。現在、所属する有限会社劇団青年座の取締役でもある。近年は、ざっくばらんなトークでバラエティ番組にも数多く出演している。

幼少時より学業優秀で運動も万能だった。高校時代には仏像の見学を趣味にしており、ちょっと変わった生徒だった。「私にしかできないこととは何だろう」と悩み、香川県立高松高校から桐朋短大演劇学科にも受験し合格して演劇の道に進んだ。卒業後に青年座に入団し、舞台女優としてデビューする。

80年代後半から90年代前半にかけて多くの東映特撮作品に出演し、スマートな美貌と優雅な身のこなしで強烈な存在感を示した。特に『仮面ライダーBLACK RX』の悪役・マリバロンは当たり役となり、後年のインタビューで「RXがきっかけでようやく女優として食べていける様になった」と語っている。

1995年から『3年B組金八先生』にて本田知美先生役としてレギュラー入りを果たし、広く顔が知られるようになる。

さらに『白い巨塔』の東政子役での演技が高い評価を受け、ドラマやバラエティ番組への出演が急増したが、かつては声の仕事も数多くこなしていた。『刑事コロンボ』のフェイ・ダナウェイ(『恋におちたコロンボ』)、『エリザベス』のケイト・ブランシェット、『エアフォース・ワン』のグレン・クローズといった大女優の吹替えや『ER緊急救命室』や『アリーmyラブ』といった海外ドラマへのゲスト(『緑の丘のブルーノ』ではアナ役でレギュラー出演)、アニメへの出演(「声の出演」を参照)がある。

近年は演技派の舞台女優という域を超え、幅広く活動の場を広げている。初めて出演したバラエティ番組は『ディスカバ!99』。常に自然体で臨み、『本当は怖い家庭の医学』に出演した際に「若い頃にホルモン不足と診断され、腹が立ち、アダルトビデオを見まくって治した。ただし効果は2年で切れてしまった」と発言。また『ダウンタウンDX』では「ヒアルロン酸を注入した」と告白。このような気さくで飾らない人柄が高い人気を得ている。

2006年の『魂萌え!』関口敏子役で、テレビドラマ初主演を果たした。

★★★

NHK大河ドラマ篤姫

徳川家定(堺雅人)の生母・本寿院高畑淳子

将軍家定の生母。大の水戸(徳川斉昭)嫌いとして知られ、家茂を家定の後継者にと強く願っている。将軍の実母として、表の政治にまで影響力を持っていた 大河ドラマ 篤姫

本寿院(ほんじゅいん、文化4年(1807年) - 明治18年(1885年))は江戸時代後期の女性で12代将軍・徳川家慶の側室で13代将軍・徳川家定の生母。他にも2人の男児を出産したが、いずれも早世した

お美津の方(本寿院)は文政5年(1822年)に西ノ丸大奥に出仕し、翌年に将軍家継嗣・徳川家慶のお手つきとなり、御中臈となる。文政7年(1824年)に西ノ丸大奥にて政之介(13代将軍・徳川家定)を出産。政之介の事は全て乳母の歌橋に任せていた。お美津は西ノ丸大奥にて「お部屋さま」と呼ばれるようになった。

天保8年(1837年)に11代将軍・徳川家斉が将軍職を子・家慶に譲る。家慶は家斉と入れ替わりで本丸に入り、お美津や他の側室、老女姉小路らが本丸大奥に入る。お美津の子・政之介が将軍家継嗣と定められ、お美津は次期将軍生母となり、次期将軍生母に相応しい身分・「老女上座」を与えられる。

翌、天保9年(1838年)に家慶の命により、政之介と共に二ノ丸大奥に居を移す。大御所・家斉が死去するとお美津と政之介は二ノ丸大奥から西ノ丸大奥に居を移す。

嘉永6年(1853年)6月22日に家慶が薨去。お美津は落飾し、本寿院と号す。家定(政之介)が13代将軍となり、将軍生母として本丸大奥に居を構えた。しかし、本丸大奥での権力者となったのはお美津ではなく、家定をお美津の代わりに育て上げた乳母・歌橋だった。

家定は病弱であり、幕府重役は、すでに家定には子を作る能力はないと見切りを付けたため、次期将軍の跡目争いが勃発する。その候補に水戸藩主・徳川斉昭の息子・一橋慶喜と紀伊藩主・徳川慶福が挙がると水戸嫌いの大奥はこぞって慶福派にまわる。本寿院は「慶喜殿が将軍になれば、わらわは死を選ぶ」と言ったほど慶喜の将軍就任に反対した。そんな大奥を慶喜派にするために将軍・家定の御台所に迎えられたのが篤姫である。しかし、将軍生母の本寿院自身が慶喜の名前を耳にするだけでも嫌がるという忌み嫌いようで[1]、大奥の情勢を篤姫一人で覆すのは困難な情勢となっていた。

安政5年(1858年)7月6日に家定が死去。14代将軍には本寿院や大奥が支持した慶福改め徳川家茂が迎えられる。その後も本寿院は大奥に残り幕府崩壊を大奥から見届け、慶応4年(1868年)4月11日、江戸城無血開城により、天璋院と共に一橋邸に移り住む。

明治18年(1885年)に一橋邸にて死去。享年79歳。墓所は谷中墓地。
本寿院 - Wikipedia

★★★

本寿院高畑淳子さんインタビュー(NHK篤姫HPより

本寿院というのは、とても正直な方だと思うんですよ。心にふたをしてよけいなことを言わないのが大奥だとしたら、本寿院は自分の欲や感情を隠すことなくぶつけてしまう。息子の家定に対する愛も直球だし、とても人くさいというか、真っ正直な方だなという印象ですね。

篤姫が一橋慶喜を将軍世継ぎに推している。それを知ったとたんに、篤姫に対する態度もがらりと豹変したでしょう。最も忌み嫌っている水戸の徳川斉昭の息子を推すとは何事かって怒り心頭。廊下で髪を振り乱して篤姫の胸ぐらをつかんだり(笑)。松の廊下じゃないですけど、かなり激情していました(笑)。

篤姫ファンからは怒られちゃうでしょうけど、案外、直情的にそういうことをする人のほうが根は曲がっていないような気がします。陰でうじうじ言うのではなく、思いをぶつけているところが、根っからの悪ではないなって。それに、みんながお行儀がいいとつまらないでしょう(笑)。篤姫も直球で正直なところがあるけれど、本寿院の場合は“KY的”正直さっていうんですか(笑)、そういうところでも楽しんでいただけたらと思っています。


大奥がこぞって水戸嫌いだというのは、斉昭が倹約を強いたからで、本寿院たちの気持ちはとてもよくわかります。

大奥のように閉鎖されたところにいる人間にとって、桜を愛でたり、月を愛でたり、衣服やこうがいでおしゃれをしたりすることは最上の喜びだったと思うんですよ。逆に言えば、それしか楽しみがない。ところが、倹約しろということは、その楽しみを取り上げるということになるわけですからね。

『私たちは、ただのとらわれ人なんですか』、『ただ男たちの道具としてここに置いておくのですか』という思考回路に行き着くのは、よくわかります。私たちもここで生きて楽しみをおぼえて何が悪いって。腹が立つのも当然だと思いますよ。

その怒りの矛先がすべて篤姫に向かうわけで篤姫も大変です(笑)。でも、敵が徹底的に攻撃しないとドラマというのは面白くないですからね。敵がいてこそ、主演の方の心根の深さとか、よいところがさらに際だって見えると思っているんですよ。


世継ぎ問題が一段落した後は、和宮が登場して篤姫と対立することになりそうです。本寿院のように泣いたりわめいたりする直球型というか、単純な嫁姑のバトルではない、お互いを押さえ込もうとするバトルなので根っこが絡まるでしょうね。相手を慮(おもんぱか)ったことが裏目に出たり、複雑なことになると思います。

そこで本寿院がどうするかというと、どちらに味方をするのかわかりませんが、火に油を注ぐような存在になるでしょうね(笑)。よく大家族などでトラブルをもっと大きくしている小姑とか(笑)、傍観者みたいな親族の中の一部があおっているみたいな光景ってありますよね(笑)。あなたが黙っていれば収まるのにと言われそうな、そんな役どころで、ぜひ、いきたいと思っています(笑)。

でも、こうして演じていると、実際はどんな人だったのかしらということを、すごく知りたくなってきます。

大奥を去った後は、篤姫についていったようです。あれだけ、けんかをしていたのにね(笑)。篤姫大奥の女性たちの行き先などをずいぶん世話をしたということなので、きっと本寿院のことも世話をしたんですね。77歳まで生きたそうですから、あの時代には相当の長寿ですよね。やはりストレスをためない人は長生きするのかしらとか、ホントはほんわかした人だったのかしらとか、いろいろ想像をめぐらせています。大河ドラマ 篤姫



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2009年01月06日

徳川家定・堺雅人



フジテレビ『トライアングル』第1話(1/6)

◆社長・志摩野鷹也(堺雅人):サチに近づく謎の人物。なぜか25年前の事件を探っている。39歳

★★★

堺雅人1カット1カットに魂を/映画大賞
2008年12月29日(月)9時57分配信 日刊スポーツ

<日刊スポーツ映画大賞授賞式>◇28日◇ホテルニューオータニ
 助演男優賞を受賞した俳優堺雅人(35)は「アフタースクール」の内田けんじ監督から花束を受け取ると、にっこりとほほえんだ。「クライマーズ・ハイ」では眼光鋭い新聞記者、「アフタースクール」ではごく普通のサラリーマンを好演。知人の紹介で新聞記者に会い、記者クラブも見学した。監督がイメージする記者像に、堺が足で稼いだアイデアを肉付けした形で「記者がデスクにネタを報告する感じでした。原田監督は大きな存在のデスクでしたね。新聞は生身の人間が汗をかきながらみんなで作る。映画も同じです。来年も1カット1カット、魂を込めて頑張りたい」と話した。
 控室では石原まき子さんから「『篤姫』がよかったですね」と声をかけられた。「楽しんでくださったお客さまの声を聞いて、モチベーションがあがります」。台本はコーヒーショップで読むが「来年もたくさん使いますよ」。全国区人気になっても、俳優としてのスタイルは変わらない。【岩田千代巳】

★★★

★7/19の堺正章氏の料理番組(14年も続いている・・!!)「チューボーですよ!」にゲスト出演。

堺雅人さんの大好物はお寿司なのだとか・・

お芝居だけで生活ができるようになったのは最近で・・お金がないときは「たんぽぽのおひたし」も食べたことがあるそう。

なすとトマトのパスタ★チューボーですよ:ゲスト堺雅人


★7月23日(水)のグータンヌーボにゲスト出演。「バラェティ番組は苦手です・・」

取調べグータンでは・・

Q「きゅんとくる女性の仕草を3つあげてください・・」・・

堺雅人さん答え・・「くしゃみ、バランスをくずしたとき、買おうか買うまいか悩む姿」

Q「女性に言われて傷ついた一言は??」・・

堺雅人さん答え・・「幼稚園のときに甲斐性なしといわれた・・」

Q「女性も見るとき、最初にどこを見る??」・・

堺雅人さん答え・・「言葉・・声・・顔」

Q「4人の中(優香、江角マキコ、内田恭子オセロ松嶋)の中で一番タイプは????」・・

堺雅人さん答え・・「内田恭子さん!!・・ラジオを聴いていて(日曜日)、毎週車の中で癒されたことがあった・・」(内田恭子さん・・・本当にうれしいーーー)

堺雅人主演『ジャージーの二人』絶賛公開中

「ジャージは最高だ!」と叫ぶ鮎川誠に、ニコニコ笑顔の堺雅人

7/23・怒れない女・北川弘美とダメ男が好きな矢口真理★グータンヌーボ

★★グータンヌーボ★★(毎週水曜日フジテレビ夜11時)

グータンヌーボ★インリン&西山繭子

◆「人を育てるというのは難しいこと」と松田美由紀さん(グータンヌーボ)
めちゃめちゃかっこいい・素晴らしいー子供達と松田美由紀(グータンヌーボ)

★★★

大河ドラマ 篤姫:家定から篤姫へ・・堺雅人さんインタビュー(NHK篤姫HPより)

堤が主演作「クライマーズ・ハイ」に自信

★★★

大河ドラマ篤姫」で篤姫の夫・徳川13代将軍家定を演じ、なんとも言えない存在感を出している。

 今回の徳川家定は奇妙キテレツな言動を繰り返している将軍。老中の前でせんべいを自ら焼いては皆に振る舞ったり、自分の口に運んで「アッチーッ」といきり立ったり。老中にみかんをぶつけたかと思えば、庭で真剣にアヒルを追いかける。おかめのお面をかぶってかくれんぼもする。まさに、うつけ将軍ぶり全開だ。

 収録に入ったばかりのころ、徳川家定の描きように「ここまでしたら徳川家の子孫の方に怒られないかな」と若干憂慮していたが、脚本家や演出の方針はそのままゴー。「将軍としての圧倒的な育ちのよさをみせてほしいとのリクエストもあって、どうしたものか」と頭を抱えもしたが、堺なりの家定像を作り上げてきた。

 「徳川家定は暗愚に見えるけど、そうでないときもあるという二つの要素がある。この二面性を使い分ける思わせぶりな芝居は、やっていて楽しかったです」
「篤姫」堺雅人 将軍の暗愚と正気…二面性使い分ける芝居
6月29日11時20分配信 産経新聞




★ 大河ドラマ「篤姫」で篤姫の夫・徳川13代将軍家定を演じ、なんとも言えない存在感を出している。

 今回の徳川家定は奇妙キテレツな言動を繰り返している将軍。老中の前でせんべいを自ら焼いては皆に振る舞ったり、自分の口に運んで「アッチーッ」といきり立ったり。老中にみかんをぶつけたかと思えば、庭で真剣にアヒルを追いかける。おかめのお面をかぶってかくれんぼもする。まさに、うつけ将軍ぶり全開だ。
「篤姫」堺雅人 将軍の暗愚と正気…二面性使い分ける芝居


★“隠れたヒットメーカー”堺雅人(34)が注目を浴びている。
 出演中のNHK大河ドラマ「篤姫」がついに視聴率25%を超えた。(15日は25.7%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)。
主役は宮崎あおいだが、準主役の堺がこれに大きく貢献していて、演技では宮崎以上に評価されているのだ。
堺雅人 今や“ドラマ・映画のヒットの陰にこの男あり”と大評判6月23日10時0分配信 日刊ゲンダイ


★(家定役の堺雅人)さんは、7月5日公開の映画「クライマーズ・ハイ」(堤真一主演)に 地方新聞社の社会部記者役で出演。役づくりについて堺雅人さんは「記者はとにかく肉が好きで、焼き肉ばっかり食べてると分かった。狩猟の本能というか。僕も肉食にしてみました」と話しているそうです。
堤真一「新聞記者なら徹底的に闘いたい」


堺雅人、富田靖子が破局 生活すれ違い…双方事務所否定せず 

堺雅人、映画「壁男」封切り1年半待った 

TV LIFE NHK大河『篤姫』に堺雅人、玉木宏、松田翔太、堀北真希ら決定

★13代将軍・徳川家定役で出演中の俳優・堺雅人(34)さんが、お笑いコンビ「ドランクドラゴン」の塚地武雅(36)と組んで初バラエティー番組に挑戦するそうです。

4月4日スタートの日テレ系「恋愛新党」(金曜・深夜0時40分)で、堺雅人さんが党首になり、15分の番組でしゃべりっぱなし・・だそう。

堺雅人、本当に新党立ち上げる!?…4・4スタート「恋愛新党」


NHK大河ドラマ篤姫第14回「父の願い」

徳川家定・(堺雅人

篤姫の夫。徳川第13代将軍。生来病弱で奇行も多かったが、実はそれは、あまりの責任の大きさと、硬直した幕府への諦めからの一種の逃避だった。篤姫と出会うことにより、家定は初めて心の平穏を知るが、別れの日もすぐそこに迫っていた。大河ドラマ 篤姫

NHK大河ドラマ篤姫第22回「将軍の秘密」

堺雅人
(さかい まさと、1973年10月14日-)は日本の俳優、声優。宮崎県宮崎市出身。宮崎大学教育文化学部附属中学校、宮崎県立宮崎南高等学校卒業。早稲田大学中退。血液型O型。身長172cm、体重60kg。靴27cm

・高校時代演劇部に所属、1992年に早稲田大学演劇研究会を母体にした劇団「東京オレンジ」旗揚げに参加。同劇団の看板俳優として活躍し、「小劇場のプリンス」と呼ばれる。その後田辺エージェンシーに所属。現在は舞台の他、テレビや映画でも活躍。
・2004年大河ドラマ『新選組!』の新選組総長山南敬助役を好演し、一般に名前が浸透。
・2005年4月にTV番組雑誌「テレビブロス(TV bros.)」が行った「好きな男」ナンバーワンに選ばれた。
・2001年の頃から女優の富田靖子と交際して結婚も近いとされていたが2007年1月に破局していたことが発表された。
堺雅人 - Wikipedia

★★★

田辺エージェンシー 堺 雅人


堺雅人 徳川家定についての最新情報【瞬!コレ by @nifty】

十三代将軍 徳川家定
http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa13.html

徳川家定 - Wikipedia

【よろパラ 〜文学歴史の10〜 日本史人物列伝『徳川家定』】


徳川家定将軍就任(1853)

堺雅人 - Wikipedia

田辺エージェンシー 堺 雅人

堺雅人とは - はてなダイアリー

堺雅人占い
http://u-maker.com/132718.html

株式会社田辺エージェンシー
http://www.tanabe-agency.co.jp/

堺雅人/エンターテインメントナビ/携帯MUSIC NAVI/けむナビ

堺雅人についての最新情報【瞬!コレ by @nifty

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2008年12月15日

小松帯刀(瑛太)

瑛太「オレでいいの」…連ドラ初主演しかも月9!

小栗、瑛太らが出演する磯野家CM続編で、イクラちゃんとタラちゃんの職業が明らかに
榮倉と瑛太が挙式…映画「余命1ケ月の花嫁」実際の式場で
キムタクがV15!好きな男ランキング★瑛太(25)が17位
NHK「篤姫」最終回前に集中的に再放送
瑛太(25)が演じる28歳のタラちゃんと
NHKトップランナー・瑛太
瑛太、初スキャンダル…絢香似美女とツーショット
榮倉奈々が「余命1ヶ月の花嫁」…瑛太とダブル主演8
ドラマ「ラスト・フレンズ」 旬の役者の葛藤重なる


★★★

瑛太(えいた)(1982年12月13日 - )

1999年7月、「EITA」名義で『ホットドッグプレス』のモデルとしてデビュー。(デビューのきっかけは、原宿でのスカウト。)
2001年、フジテレビ系ドラマ『さよなら、小津先生』でドラマデビュー。
2002年〜2003年初頭に現在の芸名に改名。
2003年、フジテレビ系のドラマ『WATER BOYS』で注目を浴び、同年、フジテレビ系の深夜ドラマ『男湯』で初主演を果たす。

東京都板橋区出身。所属事務所はパパドゥ。身長:179cm。血液型:B型。

実兄永山竜弥は俳優・モデル・クリエイター。実弟永山絢斗も俳優としてデビューを果たしている。

板橋区立蓮根第二小学校→板橋区立志村第三中学校→私立保善高等学校(2001年卒業)

尊敬する俳優は サマータイムマシン・ブルースで共演した与座嘉秋( ホーム・チーム)

大河ドラマ 篤姫(2008年1月- 、NHK) - 小松帯刀
・ロス:タイム:ライフ 第1節(2008年2月2日、フジテレビ) - 主人公・中山春彦 役
・東京大空襲(2008年3月17日・18日、日本テレビ) - 朴順仁 役
ラスト・フレンズ(2008年4月-6月、フジテレビ) - 水島タケル 役

瑛太 - Wikipedia

★★

瑛太バカ売れ!アジア5の国・地域から公開オファー
連続ドラマ『ラストフレンズ』、視聴率18.8%で注目度上昇


★★★

肝付尚吾郎小松帯刀瑛太(えいた)

篤姫の幼馴染。篤姫に熱い思いを寄せる。後に薩摩藩家老に。

篤姫と同じ年に生まれ、ある縁で幼なじみとなり、成長とともに篤姫に熱い思いを寄せるようになる…。若くして薩摩藩家老となり、西郷や大久保ら藩士たちをまとめあげる。坂本龍馬とも深い友情で結ばれ薩長同盟も京都の小松邸で結ばれるなど、薩摩藩を明治維新のリーダーに押し上げることに大いに活躍した。しかし、それは、初恋の人・篤姫に刃を向けることにもなっていく。大河ドラマ 篤姫

小松帯刀こまつたてわき):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

NHK大河ドラマ篤姫第18回「斉彬の蜜命」
尚吾郎瑛太)は お近ともさかりえ)は夫婦になりました

◆「ワタシは何かを見失っていました。薩摩で生きていくことにします。江戸はますます遠くなりますが、ワタクシの定めでしょう。」

NHK大河ドラマ篤姫第23回「器くらべ」その2・慶福(松田翔太)登場:NHK大河ドラマ「篤姫」

[小松帯刀] by 篤姫きらり旅
小松帯刀(小松清廉、肝付尚五郎)
http://www.rekishi.sagami.in/tatewaki.html
小松帯刀 〜薩摩と龍馬を結んだ男〜 講演者・桐野作人氏 2005.07.10 ...
http://www.geocities.jp/ishin_1868/komatsu.htm
小松帯刀
http://sidokan.hp.infoseek.co.jp/page395.html
Samurai World_薩摩紀行_篤姫特集_小松帯刀

<篤姫>視聴率20%超 人気の秘密は「家族愛」

小松帯刀137回忌 子孫ら参列「名を全国に」/日置 南日本新聞 - 戊 ...

小松帯刀 〜薩摩と龍馬を結んだ男〜 講演者・桐野作人氏 2005.07.10 ...

小松帯刀137回忌 子孫ら参列「名を全国に」 - 大阪龍馬会

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2008年11月24日

岩倉具視(片岡鶴太郎)

NHK大河ドラマ篤姫

岩倉具視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩倉具視いわくらともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)7月20日)は日本の公家、政治家。源通親の子孫。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。正一位・大勲位。

公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。幼いころの幼名は周丸であったが、同じ公家の子女達の間では「岩吉」(庶民の子供によく見られた名前)と呼ばれていた。容姿や言動が公家らしいおっとりさがなく、異彩を放っていたためという。幼いころから朝廷儒学者伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。

天保9年(1838年)8月8日、満13歳のときに岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい、「岩倉具視」となった。10月28日に叙爵。12月11日に元服するとともに昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し100俵の役料を受けた。

岩倉家の家格は、村上源氏久我家の江戸時代の分家であるので、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる下級の公家である。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元として免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も特になかったので家計は、大多数の公家同様常に裕福ではなかったという

嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。

安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しが、これに対して多くの公卿・公家から批判がなされた。

岩倉も条約調印に反対の立場であり、公家仲間の大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議する阻止行動を起こした。これを聞いた九条関白は病と称して参内を辞退したが、岩倉は諦めず御所を出るとすぐに九条邸に赴き、関白との面会を申し込んだ。九条家の家臣たちは病を理由に拒否したが、岩倉は面会できるまで動かなかったので、とうとう関白は折れて明日必ず返答すると家臣を通じて岩倉に伝え、岩倉を納得させた。岩倉が漸く九条邸を去ったときには午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。岩倉のはじめての政治運動であり、政治的勝利であった。

政5年(1858年)6月19日、幕府大老・井伊直弼が天皇の勅許無きまま独断で日米修好通商条約を締結。27日に老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。この頃の岩倉は対象が武士階級にとどまっている安政の大獄が皇室や公家階級にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。そのため京都所司代・酒井忠義や伏見奉行内藤正縄などと会談し、彼らに自分が理解する天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過であることを説いた。この後、公家からも隠居・蟄居処分にされる者が出ており結果的には会談の成果はなかったが、このとき岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りのままだった。

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士らの手により暗殺された後、安政の大獄は収束して再び朝廷との融和を目指す公武合体派が幕府内で盛り返した

岩倉具視 - Wikipedia

安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。
そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる。(和宮降嫁)
岩倉は、攘夷決行と条約破棄を条件に孝明帝の了承を得、和宮の江戸下向の列に加わった。
岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、文久2年(1862)8月、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。

不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。
中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。

その間、岩倉の意思を受けた中御門経之、大原重徳らが、佐幕派公卿の辞官と岩倉らの復帰を建言するが、かえって孝明天皇の怒りを買い、追放されてしまう。
慶応3年(1867)正月、明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり追放された公家達の復帰が赦される。
岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。
そして、文久3年(1863)の8月18日の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年10月、薩長に対し討幕の密勅を下した。
幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。
12月9日、薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。
その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼いの天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。

その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める

明治4年(1871)、右大臣になると、11月、条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
岩倉使節団は、異国の文化に戸惑いながら外交を展開していくが、元々新政府内の覇権争いで不仲だった大久保・伊藤博文と木戸孝允の亀裂などで、空中分解寸前だった。

帰国後は、留守を任されていた西郷隆盛らにより征韓が閣議決定されていたが、これを拒否した。
それに怒った西郷は辞表を提出し鹿児島へ帰る(明治六年の政変)。そして西南戦争へと繋がっていく。

明治6年(1874)には赤坂喰違で土佐士族・武市熊吉らに襲撃されたが、辛うじて命を拾った。

その後は、板垣退助らによる自由民権運動の抑圧、国憲編纂に苦慮する。

明治十四年(1881)年、伊藤博文らと図り参議・大隈重信を政界から追放する。

伊藤が憲法の研究のため渡独中の明治16年(1883)7月20日、胃がんをの為、病没。
享年59。

幕末維新人物名鑑・岩倉具視

岩倉具視・・片岡鶴太郎さんインタビュー

大河ドラマ出演は4回目になりますが、今回ほど切実な危機感を抱きながら(笑)、収録に臨んだのは初めてです。それというのも、まだ自分の中で岩倉具視をどういうふうにつくっていこうかと模索している段階で、非常に重要なシーンの収録を先に行うことになってしまったからです。

もちろん、歴史上の人物ですから資料等でつくり上げたイメージはありました。ただ、ドラマの場合は台本があり、そこで描かれた岩倉という人物と私とが一つになっていかないといけない。その部分がまだバラバラだったんです。そんな状態でセリフを覚えようとしてもまったく入らないんですね。心が入らないから丸覚えすらできない。

そこから格闘が始まりました(笑)。30分の仮眠をとっただけで24時間を費やしてもセリフが入ってこない。翌朝も続けて台本と取り組むのですが、まったくダメ。こんなことは初めてでしたから、精神的には非常に動揺しましたね。その日も深夜になり、『もうダメか』とあきらめかけて、もう一度、台本に向かったときに、ふっと私なりの岩倉像が見えてきたんです。そこからは少しずつセリフが入ってきて、明け方にはようやく『これでいける』と思えるようになりました。

私と台本の岩倉とが、だんだん一つに同化していくと声の質や音量も『こういうものだ』という答えが出てくる。だから、セリフも自然に入ってくるんです。ちょっと岩倉さんが憑依(ひょうい)しているという感じなんですね。それまでは精神がそこまでいっていなかったから、セリフもうわごとだったし、声も定まらないからつっかかるという悪循環。まさに言葉は“言霊(ことだま)”だと思いました。


岩倉という人は非常に頭の良かった方だと思いますね。想像力のある方なので、自分と異なる立場の人間の思い、あるいはさまざまな思想なども読み取れる。そのうえで策謀をめぐらし、なおかつシミュレーションをしたうえで何を選択していくのかということを考えていた。

ただ、そこまで頭が切れる分、本人にその気はないのでしょうが、非常に皮肉な言葉を発したり、相手を小馬鹿にしているかのような匂いが出てきてしまう。客観的に見たら皮肉であり嫌みだけれど、本人は本心を話しているだけだったりする(笑)。今回の岩倉を演じるにあたって意識したのは、そのへんの客観と主観という部分を見間違わないようにしようということでした。収録では、岩倉の世界でものを思い、その思想を信じて語るということだけに専念しています。撮り終わったシーンをモニターで見るとき、初めて岩倉を客観的に見るといった感じですね。

“公”の顔と“私”の顔、いわゆる公私の使い分けも興味深い。『日本国をよくしたい』という公の思いはもちろんあります。その一方、『名を成したい』という野心もある。本来の自分の欲を国のためだという言葉ですり替えていくこともあるかも知れない。その部分を表現できたら面白いなと思いますね。

実は京ことばがそんな表現をふくらませてくれるところもあるんですよ。うたうことができるというのかな。たとえば『甘おすなー』というセリフの抑揚ひとつで、岩倉の持っているちょっとした部分をぐわーんと大きく見せていくことができる。そんなふうに、ある部分はデフォルメしながら、私なりの岩倉具視を演じていけたらいいですね。

片岡鶴太郎かたおかつるたろう、1954年(昭和29年)12月21日 - )は、東京都荒川区西日暮里出身のタレント、俳優、歌手、プロボクサー、画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクション所属。東京都立竹台高等学校卒業。絵を描くときのみ左利き

高校卒業後、俳優を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し弟子入りを志願したが清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、最後には警察を呼ぶと言われ断念。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる

その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤彪と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子、たこ八郎等の真似で人気を博した

タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。また、岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。この番組では、岡本とは対等に渡り合っていた。

片岡鶴太郎 - Wikipedia
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2008年11月17日

徳川慶喜

徳川慶喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、よしひさ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(将軍在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) - 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。御三卿・一橋徳川家の9代当主。

唯一、将軍としての執務を江戸城で行なわなかったほか、大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城などを行なった江戸幕府最後の将軍。内大臣。従一位勲一等公爵。貴族院議員。

天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。母は正室・登美宮吉子[1]。幼名は七郎麿(しちろうまろ)。

男子は国許で養育するという斉昭の教育方針に則り、生後7ヶ月にして水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授されている。 慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、当初は斉昭も他家へ養子には出さず、長男・慶篤の控えとして手許に残そうと考えていた

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。

一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は徳川慶福と決した。

同年、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に不時登城し直弼を詰問するが、逆に不時登城の罪を問われ、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは、取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている。

万延元年(1860年)に謹慎は解除となる。 文久2年(1862年)、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使・大原重徳が江戸に入り、「徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を大老に登用すべし」という孝明天皇の勅命が下される。 7月6日、幕府は慶喜を将軍後見職、春嶽を政事総裁職に任命した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。

文久3年(1863年)には将軍・徳川家茂の先駆けとして上洛、攘夷を迫る朝廷との交渉に手を尽くした。孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において、天皇から家茂が節刀を受けてしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので、「風邪発熱」(仮病)と称して家茂に拝謁を急遽取りやめさせた。

八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されると、公武合体・佐幕両派による参与会議に参加すべく再び上洛。しかし会議がまとまらないと見るや、故意に中川宮らとの酒席で泥酔し、居合わせた伊達宗城、松平春嶽、島津久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらってるんだ!」などと暴言を吐いて体制を崩壊させるなど、手段を選ばないとも言える交渉を行なった。

以後は京都に留まり朝廷から禁裏御守衛総督に任じられ、守護職・松平容保(会津藩主)、所司代・松平定敬(桑名藩主)と共に勤皇の志士や公家の取り締まりにあたる(一会桑体制)。天狗党の乱では慶喜を支持していた武田耕雲斎ら実家・水戸藩の家臣たちを切り捨てる冷徹さも見せた。

元治元年(1864年)、禁門の変では幕府軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州軍をみずから攻撃。それに続く第一次長州征伐が終わると、無勅許状態にあった日米修好通商条約の勅許に奔走し、条件付ながら勅許を得ることに成功した。

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は敗退。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、休戦協定の締結に成功する。

家茂の後継に推されたが、慶喜はこれを固辞。8月20日に徳川宗家は相続したが将軍職就任は拒み続けた。その後、老中らが将軍就任を懇請したが受諾せず、12月5日に将軍宣下を受けて将軍に就任した。これはいわば恩を売った形で将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあった。

慶喜はフランス公使・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し、老中の月番制を廃止した。また、実弟・徳川昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。

薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、明治天皇に政権返上を上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたと言われる。

しかし、倒幕を目指す大久保利通、岩倉具視の画策で、12月には王政復古の大号令が出され、慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた。慶喜は衝突を避けるべく大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて徳川の正当性を主張、さらに朝廷に運動して辞官納地を修正させて穏やかな形に直してもらう。翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩が江戸市中で行なった挑発に挙兵。会津・桑名藩兵を使って京都を封鎖するも、年が明けて1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が形勢不利と見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、兵を置き去りにして軍鑑開陽丸で江戸へ退却した。

間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が下り、大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野寛永寺大慈院において謹慎する。また徳川宗家の家督は養子・田安亀之助(のちの徳川家達)に譲った。

勝と官軍参謀・西郷隆盛との交渉がまとまり江戸城が無血開城されると慶喜の身柄は水戸へ移された。藩校弘道館の一室にて引き続き謹慎した後、7月には徳川家が移封された駿府に移った。これにより、江戸幕府は完全に幕を閉じた。この戊辰戦争以降、幕府の制度は新政府によって廃止され、復活することは無かった。慶喜は江戸幕府のみならず武家政権最後の征夷大将軍となった。

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除される。

明治30年(1897年)に東京・巣鴨に移り住む。翌年には皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興す。明治43年(1910年)に家督を嫡男・慶久に譲り隠居。

以後は政治には携わらず(ただし、1902年〜1910年に貴族院議員となった)、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくったと言われている。

大正2年(1913年)に感冒にて死去。享年77歳(満76歳と0ヶ月25日)は徳川歴代将軍の中でも最長命であった。

徳川慶喜 - Wikipedia

徳川慶喜家 - Wikipedia

十五代将軍 徳川慶喜

徳川慶喜

NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出」
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2008年10月20日

和宮(かずのみや)・堀北真希

「土曜スタジオパーク」篤姫で和宮皇女を演じるに堀北真希さん登場・その2
「土曜スタジオパーク」篤姫で和宮皇女を演じるに堀北真希さん登場

★★★

大河「篤姫」はいよいよ30%超えか (日刊ゲンダイ2008年8月13日掲載)
注目番組の視聴率(北京五輪・篤姫)
「篤姫」視聴率26・4%、内柴金を上回る

★★★

NHK大河ドラマ篤姫

和宮(かずのみや)・堀北真希

孝明天皇の妹。篤姫の義嫁。「公武一和」という政略のため将軍・家茂に嫁いだ。当初はどうしても武家のしきたりに馴染むことが出来ず、篤姫との関係もぎくしゃくしてしまう・・・。

大河ドラマ 篤姫

★★★

堀北真希、松田翔太が和宮と家茂の墓参り

★★★

和宮親子内親王皇女和宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


皇女和宮 和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) - 1877年9月2日)

仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室である。

「和宮」は誕生の際に賜られた幼名で、「親子」は文久元年(1861年)の内親王宣下の際に賜られた諱である。号は静寛院宮(せいかんいんのみや)。

[不本意な結婚と大奥との対立]

江戸時代はもとより、それ以前に於いて、皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例である[1]。当初和宮自身がこの結婚に疑義を唱えていたのは有名な話であり、結局家茂との結婚が決まった[2]後も、幕府に異母姉淑子内親王の御殿[3]の建設や、降嫁後も大奥風ではなく御所風の生活を守ることなどを約束させている。但し、「御所風の生活」の方は幕府首脳が大奥に全く根回ししていなかったため約束は破棄同然となり、幕末の大奥が大混乱に陥った一因となった。

文久2年2月11日和宮と家茂の婚儀が行われたが、その様子はそれまでの十三代の将軍たちの婚儀とは異なっていた。和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という逆転した立場で行われることとなった。このことは後々まで江戸城内において様々な形で尾を引くこととなった。江戸城内では武家の習いで将軍の正室を「御台様(みだいさま)」と呼んでいたが、親子はこれを拒否し「和宮様」と呼ばせたり、挨拶は家茂から和宮に言上するなどそれまでの徳川将軍家の慣例を破ることになり、江戸武家方と京都御所方双方の対立を煽ることとなった。

大奥で中臈だった大岡ませは、廊下で和宮に会った時、廊下の隅で平伏した自分の前を通り過ぎる和宮の袴からでた足が、足袋を履かずに素足だったことの驚きを明治になって語った。江戸大奥では足袋を履くのが決まりであったが、御所では勅許が出ないうちは足袋を履かないという「御所風の生活」を文字通り和宮が主張した結果のためである。尤も和宮に限らず御所方の宰相典侍庭田嗣子の「御側日記」にも、5月2日日光輪王寺の強飯式に「足袋をはかされ申すこと江戸方御用に懸り候人々式日にて眉なし」と記し、無理矢理足袋を履かされたことに対する困惑が見られた。

しかし江戸城大奥における武家方従者と御所方従者の対立とは別に、家茂は側室をおかず、和宮を生涯の伴侶とし、夫婦仲は良好であったとされている


[家茂死後]

和宮と家茂の間に子はなく、家茂は田安慶頼の子亀之助(のちの徳川家達)に相続させることを表明していたが、家茂薨去後、和宮は「唯今の時勢、幼齢の亀之助にては如何あるべき、確かなる後見の人なくては協(かな)はざることなれば、然るべき人体を天下の為に選ぶべし」と語ったという。老中板倉勝静らも多事多難の折柄、一橋慶喜こそ将軍に立てるべきと斡旋し、慶喜の後継に亀之助をと和宮に伺ったところ、和宮は「御遺命さへ反故とならずば異存なし、中納言(慶喜)の後をば必ず亀之助に継がしむべし」と許可したという。


[晩年]

幕府瓦解後一旦京都へ戻った和宮だが、明治天皇や天皇に随従して市谷砂土原に居住していた叔父の橋本実麗らの勧奨もあり再び東京へ戻ることを決め、明治7年7月に東京に戻り、麻布市兵衛町にある元八戸藩南部遠江守信順の屋敷に居住した。東京移居後は皇族や天璋院や家達をはじめとした徳川一門など幅広い交流を持つようになった。しかしこの頃より脚気を患い、明治10年8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり箱根塔ノ沢へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言がある[5]。程なく明治10年9月2日早朝、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去する。

和宮親子内親王 - Wikipedia

皇女和宮について

皇女 和宮

皇女和宮 辞世の句

★★★


【2008年3月21日掲載】日テレ開局記念番組で結果を残した堀北真希
2008年3月24日(月)10時0分配信 日刊ゲンダイ



NHK大河ドラマ篤姫

<篤姫>視聴率20%超 人気の秘密は「家族愛」

堀北 真希(ほりきた まき、1988年10月6日 - )東京都清瀬市出身

2002年 - 中学2年生の時、部活動の帰宅中に畑道でジャージ姿でスウィートパワーにスカウトされる。当初は断ったものの、1ヶ月程して関係者による自宅訪問を受け芸能界入りが決まる。

2003年1月 - ドラマ『いつもふたりで』でテレビ初出演

2003年7月 - 映画『COSMIC RESCUE』のヒロイン役オーディションに合格し、同作で映画デビュー。

2003年10月 - ドラマ『ケータイ刑事 銭形舞』でテレビドラマ初主演。

2004年2月 - 映画『渋谷怪談2』で映画初主演。

2006年4月 - 『クロサギ』吉川氷柱役でヒロインを好演。

2006年10月 - 『鉄板少女アカネ!!』で、地上波のテレビドラマ初主演

2008年2月 - 第31回日本アカデミー賞優秀助演女優賞受賞。(『ALWAYS 続・三丁目の夕日』)


堀北真希、人生初の胸ぐらつかんでケンカ
堀北真希「男の子の方が…」
堀北「初めての合コン」…30日放送「恋のから騒ぎ―」
堀北真希「びっくりした」
堀北真希、大好きミッキーと共演…東京ディズニーリゾート写真展開幕
この人物のオモテとウラ 堀北真希(女優)

「篤姫」和宮役に堀北真希!時代劇初挑戦
堀北真希、19歳の目標は「鼻でリコーダーを吹きます」
“男女2役”堀北真希ひとりでキスシーン…映画「東京少年」
男子制服姿の堀北真希、“イケメンモデル”でファッションショー
堀北真希 映画でも“男の子”演じる
男の中の男!?堀北真希はどこ!?…



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徳川慶福(家茂)★松田翔太

NHK大河ドラマ「篤姫」第42回「息子の死」

NHK大河ドラマ篤姫第23回「器くらべ」その2より登場。

「めちゃめちゃかっこいい・・あの通り!!」と母・松田美由紀(グータンヌーボ)

チューボーですよにゲスト出演、松田翔太さん

松田翔太さんインタビュー(篤姫HPより)

★★★

NHK大河ドラマ篤姫

徳川慶福・14代将軍徳川家茂松田翔太

徳川第14代将軍。公武合体政策のため天皇の妹である和宮と結婚。周囲の不安をよそに2人は仲睦まじく過ごすが、長州征討のため大坂城出陣中に短い生涯を閉じてしまうことに・・・。大河ドラマ 篤姫

松田翔太(まつだ しょうた、1985年9月10日 - )
父親は松田優作、母親は松田美由紀、兄は松田龍平、伯母は熊谷真実という芸能一家である。兄とは仲がよく、また妹は松田兄弟にとってアイドル的存在であるというhttp://pikamama1119.seesaa.net/category/4294884-1.html

NHK大河『篤姫』に堺雅人、玉木宏、松田翔太、堀北真希ら決定

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主。初名は徳川 慶福(とくがわ よしとみ)。

徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の長男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去した。祖父は徳川家斉、祖母は妙操院。正室は孝明天皇の妹・和宮親子内親王(静観院宮)。公式には側室は持たなかった(但し、関係のあった女性の噂があり、墓所の調査(後述)から妾の存在を示唆する意見がある)。4歳で紀州藩主となったが、徳川氏中、嗣子の無い第13代将軍・徳川家定に最も近い血筋の人物[1]であるとして、井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となる。血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。

弘化3年(1846年)、和歌山藩の第11代藩主・徳川斉順の次男として生まれる。嘉永2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を継いで第13代藩主となった。

安政5年(1858年)、一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった

文久2年(1862年)に公武合体策の一環として和宮と結婚。政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好であった。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲がよいといえたのは家茂・和宮であったといわれたほどである。

慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井貞憲の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守をまもっていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、家茂は大坂城にて薨去した。享年21

家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。

また、幕臣からも信望が厚かったと言われ、家臣や女性や動物たちに至るまで非常に優しい態度で接する一方、剛毅な一面を持つ人柄が明治後に旧幕臣たちなどからさまざまな逸話で伝えられている。

羊羹、氷砂糖、金平糖、カステラ、懐中もなか、三色菓子など甘いものを好んだ。虫歯や脚気の原因はこれらの食べすぎだと思われる。
四肢骨からの推算で身長は156.6センチである。
徳川家茂 - Wikipedia


十四代将軍 徳川家茂
http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa14.html

黄昏呆助のひとり言: 皇女和宮と徳川家茂
http://tasogaresan.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_0ec0.html

幕末写真館

徳川幕府十五代全将軍

江戸東京博物館|「徳川家茂とその時代」展


歴史上の人物と和菓子 -徳川家茂(とくがわいえもち)−虎屋の将軍家 ...


徳川慶福(家茂)松田翔太:NHK大河ドラマ「篤姫」

徳川家茂
http://www.chohoji.or.jp/promenade/iemoti.htm
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2008年10月06日

松田翔太さんインタビュー(篤姫HPより)

NHK大河ドラマ『篤姫』第25回〜第39回

将軍・家茂役、松田翔太さんの得意料理はうにクリームパスタ・

★★★

徳川家茂松田翔太さんインタビュー(篤姫HPより)

家茂の初登場は母上(篤姫)との対面シーンで、13歳という設定でしたが、それほど違和感はありませんでした。まだ紀州の慶福の時代でしたから、母上とは立場も位も違う。その差が自然に年齢差にもつながったのではないかと思います。僕自身、初めての時代劇ということで緊張感があったのもよかった(笑)。きっと慶福は御台所との対面に緊張していたでしょうからね。

演じるうえでは、まだ13歳なのだから無理に正しいことを言おうとするのではなく、素直に表現すればいいのかなと思いました。そのためには、気持ちを浄化させて悪いことは考えない。そうしないと悪い顔になってしまうから(笑)、ふだんから清らかな気持ちで過ごすようにしていました。

収録に入ったとき、とてもうれしかったのは、宮崎あおいさんが最初から“ウエルカム”という姿勢で僕を受け入れてくれたこと。それが役と重なってすごくやりやすかった。篤姫は、家茂に母としてだけでなく、女性であるところもちゃんと見せてくれるし、弱い部分や悩みも隠さずに打ち明けてくれる。だから家茂も打ち解けて、なんでも話せたし、尊敬できたと思うんです。

宮崎さんは僕と同い年だけど、お芝居はベテランなので先輩にあたります。だけど、気を遣わせないし、一緒にいていやすい雰囲気をつくってくれる。息子として(笑)、演じやすいのですごくありがたいです。


幕末から明治維新にかけての歴史は、もともと好きだったんですよ。ただ、慶喜が将軍になってから後のことが中心で、その前のことはあまりよくわかっていなかった。

家茂はどんな仕事をしたのか、時代背景はどうだったのか。そんなことを知るために、徳川家の歴史がわかる本や年表などに目を通しました。ああ、激動の幕末はここからこうなったのか、長州征伐のときの将軍が家茂だったんだと改めて知ることができてよかったです。

将軍としての家茂は年表で見る限りでは寂しいですね(笑)。はっきりとこういう業績を残しましたといえるものがない。“公武合体”で和宮と結婚したということくらいでしょう。

ただ、業績ではなく人としての家茂を見たとき、その純粋でまっすぐな生き方はいいなあと思いますね。たとえば和宮のこと。どんな資料を読んでもふたりは本当に仲が良かったと書かれています。初めて会った瞬間に好きになったと考えることもできるけれど(笑)、それはないでしょう。むしろ公武合体の意味を十分に理解し、自分の中で消化させていたからこそ、前向きに国のために取り組んだ。攘夷の約束が無理なことを知りつつ、和宮のことも好きになろうと前向きに考えたんだと思います。

優柔不断なところもありますが、それは若さゆえでしょう。あの年齢で大坂で死んでしまったのかと思うとちょっと切ないですね。演じていても、まっすぐでピュアな青年だったんだなということを実感しています。大河ドラマ 篤姫

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2008年08月18日

観行院(かぎょういん)・若村麻由美


NHK大河ドラマ篤姫

観行院(かぎょういん)・若村麻由美

和宮の実母。和宮とともに、江戸城大奥に入る。幕府が降嫁の際の約束を守っていないと激怒し、和宮の盾となり、篤姫たちと厳しく対立する。大河ドラマ 篤姫

★★★

若村麻由美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若村 麻由美(わかむら まゆみ、本名;小野 麻由美、1967年1月3日 - )は、東京都練馬区出身の女優。所属事務所はオフィス春花。淑徳高等学校卒業。無名塾出身。日本舞踊名取。血液型はA型、身長162cm。

高校時代にたまたま観た無名塾の舞台に感銘を受け、卒業後に入塾。その後『はっさい先生』のヒロインに723名の中から選ばれてデビュー。それ以降さまざまな分野で幅広く活躍している。
1991年の『フィレンツェの風に抱かれて』ではイタリア人男性とのラブシーンを演じ、1988年の『飢餓海峡』では着物をはだけられ乳首を露出している。
2003年、宗教団体「釈尊会」の小野兼弘代表と結婚する(彼とは坂東三津五郎らが若き日より稽古、精進した日本舞踊の坂東流関係者を通して知己となり結婚したという)。2007年4月18日、小野が肝不全のために急逝した。結婚後、一時期仕事が激減したが、夫の死後、再び芸能界に復帰した

★★★

若村麻由美、夫の死から初の公の場
若村麻由美さん、釈尊会会長就任否定
若村麻由美さん夫急死…書面で「今はボーッとした頭
若村麻由美さんの夫・小野兼弘さんが死去

★★★

若村麻由美のページ

若村麻由美を応援するページ

若村麻由美画像

★★★

大河「篤姫」はいよいよ30%超えか (日刊ゲンダイ2008年8月13日掲載)

★★★

注目番組の視聴率(北京五輪・篤姫)

「篤姫」視聴率26・4%、内柴金を上回る

家茂役の翔太 まげ姿に「鏡見るのが嫌」

堀北真希、松田翔太が和宮と家茂の墓参り

篤姫の直筆とみられる短冊発見 大阪の古文書収集家

★★★
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2008年08月11日

堀北真希と松田翔太の人気俳優2人が語る『篤姫』に対する思い2008年06月26日

堀北真希と松田翔太の人気俳優2人が語る『篤姫』に対する思い2008年06月26日

増上寺でお墓参りをする堀北真希松田翔太

 大河ドラマ篤姫』に出演する若手人気俳優の松田翔太堀北真希が、増上寺で墓参りを行った。

増上寺の徳川霊廟には2人が演じる夫婦、14代将軍の徳川家茂と妻の和宮の墓があるほか、秀忠、家宣、家継、家重、家慶ら徳川家一族が祀られている。2人は家茂と和宮のお墓に花と線香を供え、手を合わせた。

 現在『篤姫』は全50話中、半分の25話を終えたところ。25週連続で視聴率は20%を超えており、過去10年の大河ドラマの中でも最高記録を打ち出している。ドラマはこれから終盤へと進んでいくが、この勢いは止まりそうにない。

 今回、墓参りをした2人は時代劇初出演。

松田翔太は、松田優作を父に持ち、兄・龍平に遅れて俳優デビュー。2006年の『長い散歩』で映画デビューを果たし、『ワルボロ』(2007年)では主演を務めた。『篤姫』では14代将軍の徳川家茂役で出演しており、これから登場シーンは増えていく。

一方、堀北真希はテレビCMやドラマで活躍する人気若手女優。大河ドラマでは家茂の正室である和宮を務める。現在、撮影は進んでいるものの出演は8月17日からとなる。


家茂役の翔太 まげ姿に「鏡見るのが嫌」

増上寺に墓参りに訪れた松田翔太と堀北真希
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井伊直弼役中村梅雀さんにインタビュー(NHK篤姫HPより)

井伊直弼役中村梅雀さんにインタビュー(NHK篤姫HPより)

大河ドラマ「篤姫」第32回「桜田門外の変」

井伊直弼というのは天才的に器用な方だったようですね。茶道においては“千利休以来”と賞され、居合道はご自分の流派を持っていた。さらに弓道、馬術、柔術、書道と文字通り“文武両道”そのすべてを深く極めたすごい人だったんです。

そうした人間の心から生まれた芸術、作法をわきまえているからこそ、人の欲の動きもよくわかるんですね。根回しとか心をつかむポイントに長けている一方、この人間はそろそろこういうふうになっていくだろうから、こちらから抑えていこうということもできたんです。

攘夷派をあえてシャットアウトするという策をとったのも、世の中の情勢を非常に冷静に客観的に見ていたからでね。全体のバランスをとっている余地はないと判断。まさに先を先を考えたうえで自分のなすべきことに挑んでいったということでしょう。人はなかなか悪役になれないものだと思うのですが、身を賭して世の中のために自分を犠牲にした人物だったと思います。


井伊を演じるうえで意識したのは、いわゆるステレオタイプの悪役にはしたくないということでした。ドラマを見ている方からすれば、何を考えているのかわからない。だけど、とにかくこいつは『いやだな』と思ってしまう。そんな得体の知れない奥深さというのかな。単に自分の思いをまとめているだけなのに、それがいやーな顔に見えてしまう。『ああ、また何かひどいことを考えているな』『こういう冷淡な男だから、かんたんに人を殺すんだ』と誤解されるような顔になっていけばいいなと。そういう意味では、僕の顔や声が甘くならないよう気をつけましたね。丸っこい顔をしているから(笑)、『愛きょうのある井伊じゃないの?』と思う人を、裏切りたいというのもありました。

ただ、やはり計算高く大きな圧力にも屈せず、孤独に近い存在であったこと。周りを先んじる頭脳、誰も論破できないものを持ち信念を貫いたこと。そういう人間に見えるかなという不安もあったんですよ。


最後に天璋院と茶室で対面したシーンは、とてもよかったですね。この女性には策略や嘘がないうえに、発想が非常に真っ当だということが、お茶をやっているうちにわかってくる。ああ、だから家定があれだけ信頼し、家茂も頼っているのだな。これはたいした女性だと納得する。短い言葉でも感じ合えるというのは日本人独特の精神交流ですからね。

井伊自身も天璋院に言った『おのれの役割を果たしたまで』という言葉がすべて。それを淡々と、しかし万感を込めて言った瞬間、お互いがわかり合えた。一生懸命に自分のつとめを果たしている人間同士だからこその心のふれあいがありました。

井伊は人を処罰する痛みや残酷さを十分に承知していたんだと思います。“桜田門外の変”が起きた日、警告の文が届いていたにも関わらず、警護の人間をつけずに出かけたのも、自分は殺されても仕方がないと思っていたからでしょう。その覚悟のもとに自分のつとめを果たした潔さは見事だと思います。

今回の“桜田門”で、もし見ている方に今までと違う余韻や、大切な人間を失ってしまったのかなという思いを感じていただけたらうれしいですね。そこで、井伊直弼という人物を伝えるという僕のつとめが終わるのかなと思っていますから。大河ドラマ 篤姫

大河ドラマ「篤姫」第32回「桜田門外の変」
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2008年08月10日

重野役中嶋朋子さんにインタビュー(NHK篤姫HPへより)

重野:中嶋朋子

篤姫付きの御年寄。

大奥での工作を有利に進めるために幾島の命を受けて本寿院滝山の注視を命じられる。

また当初は表使であったが、幾島大奥を去る際に、表に顔の利く事を見込まれて御年寄に抜擢される。

篤姫 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia

大河ドラマ「篤姫」第31回「さらば幾島」

大河ドラマ 篤姫・中嶋朋子さんへインタビュー・柔らかいクッションのような存在に・・

重野は幾島さんに替わって天璋院様のそばにつくことになりましたが、幾島さんなら自分のあとにどんな人を持ってくるんだろうって考えますね。

すでに天璋院様は、独特の感性と個性で大奥のトップに立たれている方。その方に添い遂げていくのだから、叱咤激励するというよりは、進んで行く道に不安を覚えるようなとき、他の人には言えないようなことを言える存在になれればいいのかなと思います。

これからの天璋院様は、いちだんと激動の嵐の中に立ち続けることになり、より強さが求められる。でも、そこでがんばり過ぎないように、どこかで柔らかく受け止めるクッションのようになれたらいいのかなって。

たとえば、徳川家の人間として『薩摩のことは忘れようと』と、がんばっていらっしゃるときに、『そのことは置いておいてもいいんじゃないですか』と、言ってみたり。がんばり過ぎる彼女の肩の力を少し抜いて上げるといった感じですね。

だから、必ずしも“切れ者”でなくていいと思うんです。むしろキャリアとかそういうものを超えたところで、ものが言えたり、お腹でものを感じて判断出来るような人のほうがいいのかなあって。きっと、これからの天璋院様に必要なのは、彼女とはどこか違ったところで判断が出来たり、情とも違う、もちろん計算でもなく、有無を言わさず一緒についていける人なんでしょうから。

重野には、ちょっとおっちょこちょいなところもあるようですが、型破りな天璋院様のそばにいても“参っちゃわない”ような感じがいいのではないでしょうか(笑)。


重野は、あとから大奥に入ってきたので、これまでの確執などに左右されることなく、中立でいられる部分がありますよね。どんなものにも、ものおじせずに意見を言うような場面もちらほら出てきます(笑)。それというのも、重野自身が凝り固まったジャッジを持っている人ではないからなんでしょうね。

たとえ敵対している相手でも『この人は正論を言っている』というふうに、一歩引いたところからみることが出来る。傍観者ではなく、まっただ中にいながら観察をするというタイプの人だと思います。

あちらの人が言うことに『ふんふん』と耳を傾け、こちらの人の話を『なるほどねえ』と受け止める。そんなふうに、いろんな人に敬意を持って接するということを、自分の中で大事にしている。そういう人にしていきたいですね。

もっとも、どちらかと言えば、『あ、この人はすごい』という嗅覚で、どこまでもついていこうと思っちゃうタイプ(笑)。決して計算ではないんです。もし計算が出来れば、そんなことは言わないとか、もっと手綱を締めなくてはいけないと思えるような場面もあるんですよ。

天璋院様が『薩摩に帰ろうかな』と思っているときに、引き留めるのではなく『一緒についていきます』となってしまったり(笑)。ある種、情に流されるというか、けっこう頼りない部分もあるんですけど、そこはお腹で感じる人というふうに理解しています。

中嶋 朋子(なかじま ともこ、1971年6月5日 - )は、女優。東京都出身。身長157cm。砂岡事務所所属 。

1975年に劇団ひまわりに入団し、1976年にテレビデビュー。1981年から2002年にフジテレビで放送されたテレビドラマ『北の国から』の黒板蛍役で一躍有名になった子役出身の女優。1990年に出演した映画『つぐみ』では各映画賞を受賞し、舞台などでも活躍している。

1998年に6歳年上のヘアメークアーティストの西村俊範と入籍。入籍時には妊娠7カ月で、同年6月に男児を出産。『北の国から』最終回スペシャルでは長男・西村成忠が蛍の息子役として登場した。




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2008年07月14日

大河ドラマ 篤姫:家定から篤姫へ・・堺雅人さんインタビュー(NHK篤姫HPより)

大河ドラマ「篤姫」第28回「ふたつの遺言」
大河ドラマ 篤姫:家定から篤姫へ・・堺雅人さんインタビュー

今まで自分の生に無頓着だった家定が、初めて生きよう、つなげようとした唯一の決断が、世継ぎに紀州の家茂を選んだことでした。

徳川家を存続させることに興味がなかったのに、まだ若い家茂なら篤姫を生かすことができると考えてのこと。篤姫に徳川家を頼むということでもあったんですね。

ドラマの中で数週間にわたって将軍継嗣の問題が議論されましたが、家定にとっては“慶喜か慶福か”ということより、この徳川の家をつなげさせようという決断が一番大きかったんじゃないかと思います。この家を残してもいい、残すだけの価値があると判断した。それは、言葉をかえれば自分は生きている価値がある、生きていていいよと許した瞬間だとも思うんです。
篤姫は家定が死んだ後も家茂の養母として大奥に残り、最後まで徳川の人間として生きていきますよね。そのよりどころとなるのが家定との結婚生活だったわけで、その部分を凝縮して演じるというのは正直プレッシャーでした。

この後、官軍としてやってきた薩摩と篤姫が、がらんどうの大奥で対峙することになると思うのですが、そんな篤姫にドラマを見ている方が何の違和感もなく見入ってしまう。そうなれば、そこで初めて僕の役割が完成するのかなと思います。もし、しっくりこないとしたら、それは僕がだめだということです。

ただ今回のドラマは、篤姫というバトンを次々と誰かがリレーしていくような形で作られている気がします。そのうちの1人が斉彬であり、僕であり、ほかにもいろいろな方にもまれて篤姫の人生が進んでいく。伝言ゲームではないけれど、最後のゴールまでリレーのバトンが本当にうまく受け継がれていくのかということを、全員がたぶん固唾をのんで見守っていくんでしょうね。

プレッシャーがあったとはいえ、僕としては非常に楽しい作業だったし、僕と宮崎あおいさん、もしくは今回のメンバーでしか作れない家定になったんじゃないかなという気もして、非常に幸せな体験となりました。

★★★★

徳川家定堺雅人

「篤姫」堺雅人 将軍の暗愚と正気…二面性使い分ける芝居
堺雅人 今や“ドラマ・映画のヒットの陰にこの男あり”と大評判

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2008年06月22日

大久保利通(正助)・原田泰造

NHK大河ドラマ篤姫

大久保利通(正助)原田泰造

薩摩藩の下級武士の家に生まれ、西郷吉之助(隆盛)(小澤征悦)
と兄弟のように親しく育つ。

お家騒動に巻き込まれ若い時に謹慎生活を送るが、のちに島津久光に見出され、明治維新を成し遂げるために大活躍する。

薩摩時代の篤姫にとって、尚五郎西郷大久保は、青春を一緒に過ごした友人として深い絆で結ばれることになる。
大河ドラマ 篤姫

NHK大河ドラマ篤姫第25回「母の愛情」

★★★

原田泰造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原田 泰造(はらだ たいぞう、男性、1970年3月24日-)は、お笑いトリオ・ネプチューンのメンバーで、お笑いタレント、俳優、ナレーターである。ボケ担当。愛称は「タイゾー」。ワタナベエンターテインメント所属。血液型はB型。東村山市立第四中学校−東京都立農芸高等学校卒業。 身長177cm,体重75kg 男の子、女の子の2児の父。 姉と弟が1人ずついる。

1990年高校時代の友達を誘い、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)に入社。「パープルン」を結成しデビュー。しばらく活動していたが、相方が多額の借金を作り地元に帰ってしまい解散。
新しい相方を探していたところ、オーディション時に一緒で、当時ピンで活動していた堀内健に目が止まり、原田から声をかけ、1991年に堀内と「フローレンス」を結成。
1993年に元ジュンカッツで先輩の名倉潤が加入して、ネプチューンを結成。
1995年、現在の妻と結婚後、同じ都内の東村山市に家を建て、そこに在住。結婚の事実を公表しないまま、1998年に妻子持ちである事が発覚。ブレイクする前に結婚したため誰も知らなかったとの事。現在、2人の子供を持つ。
2000年に『編集王』(フジテレビ系列)でテレビドラマで初主演を務め、その後も多くの作品に出演。2004年公開の『ジャンプ』では映画初主演も果たした。
2005年7月、舞台「キスへのプレリュード」に主役で出演、これにより同年度の第43回ゴールデン・アロー賞・新人賞を受賞(尚、その7年前にはネプチューンとして同・芸能賞(現在の放送賞バラエティ部門)を受賞したことがある)。
2006年4月から、NHK教育テレビで放送開始の『一期一会 キミにききたい!』のナレーションを務めるなど、芸の幅は更なる広がりを見せている原田泰造 - Wikipedia

古畑中学生・古畑任三郎生涯最初の事件・任三郎の理解ある??教師役


★★★

大久保利通

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

大久保 利通おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士、政治家。位階勲等は従一位勲一等。

維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる

文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。

15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。

弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小納戸役に異例の抜擢、家格も一代新番となる。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。

慶応元年(1865年)、利通と改名する。

久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。


[明治維新後]
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平らと対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年、台湾出兵を行い9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡り、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。

明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。

明治10年(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園。


[余録]
趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、指宿煙草というキツいものを愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだったという(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。

官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、三年町に西洋風の豪邸を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残ったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

口数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったといわれる。
大久保利通 - Wikipedia

posted by 江〜篤姫 at 09:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト

2008年06月18日

大河ドラマ篤姫で家定の母・本寿院を熱演中・高畑淳子さん「スタジオパークからこんにちは」に登場

6/17(火)、NHKスタジオパークからこんにちは」に

NHK大河ドラマ篤姫

徳川家定(堺雅人)の生母・本寿院を熱演している高畑淳子さんが登場!!

6/15のNHK大河ドラマ篤姫第24回「許すまじ、篤姫」では、慶喜(平岳大)ハリスとの会見に同席させた篤姫(宮崎あおい)に怒り、胸倉をつかむという激しいシーンも登場、大河ドラマ篤姫を面白くしてくれる存在である高畑淳子さん・・さてNHKスタジオパーク」では・・

★★★

「(篤姫 本寿院)すごくマジメにやってるんですけど・・」と高畑淳子さん・・

高畑淳子さんは1954年、香川県生まれ(54歳)、成績優秀、スポーツ万能少女。

高畑淳子さんは1976年青年座に入団(創立53年)。1990年には「からゆきさん」という舞台で西田敏行さんと夫婦役も・・。以後、テレビ、舞台で大活躍。

「変身願望が強いんだと思います・・」と高畑淳子

高畑淳子さんは篤姫将軍家定の母本寿院

20人近く子供を産んだ本寿院・・みんな早死してしまい、病弱ながらも将軍家定だけが生き残り、溺愛します。

母親であるなーと思ったシーンは・・本寿院として始めての撮りだった

「せんべいを上手く焼くのは手間であるなー」と将軍家定・・・こげたせんべいを母本寿院は「なんと香ばしい・・」と食べるシーン・・堺雅人さんと親子だなーと直感したとか・・・。


大奥では美容健康話がブーム

宮崎あおいさんは「亀のゼリーがいいらしい」

稲森いずみさんは「加圧トレーニングがいい」

松坂慶子さんは「子供が一番よろこんでくれるのは、おもちの上にチーズを載せたおもち・・」

と様々な話で盛り上がっているとか・・。

高畑淳子さんは肝っ玉母さん。

高畑淳子さんは、大学4年生の女の子と中岳3年生の男の子ユウタくんのお母さん。女手ひとつでなりふり構わず、一生懸命、二人の子を育ててきました。

14歳の野球少年の男の子ユウタくんは難しい年頃だと語り、「仕事場は天国、家は戦いです!!」と言います。子育てを手伝ってくれる高畑淳子さんのお母さんも「ユウタはんのことは手に負えません」と言うそうです^^。

高畑淳子さんの親友はピーターさん

高畑淳子さんは、出不精で、家にいるときはかたづけものしているのがすきで、友人も多くないけど、親友はピーターさんなのだとか。江守徹さんと3人で大顔(巨顔)同盟というのを作っているのだとか。

ピーターさんは、「猛牛みたいな女性で、裏切らない信頼できる女優、たばこを1本くださいといったら危険信号、タバコがないなら口びるを・・と言われます・・キス魔らしい・・」と話していました。

◆熱唱ライブ!!高畑淳子さんワンマンショー

高畑淳子さん「薔薇色の人生」を熱唱。

高畑淳子さん「美と若さを保つために心がけていることは??」・・

軽い運動とよくごはんを食べる・・いろんなもの・・五色五味

高畑淳子さん「結婚の予定は??」・・

息子が成人したら・・結婚はできないけど、話し相手はほしい・・好みのタイプは・・胸板が厚くてイケメンで、優しくて、ゆっくりと話ができること・・」

高畑淳子さん「息子さんにお嫁さんがきたら??」

なるべく会わないようにします、距離を持って、干渉しないように・・と思います

高畑淳子さん「死ぬまでに一度は経験してみたいことは??」

ないですねー・・旅行は好きじゃないんだけど・・歴史をからめた旅行はしてみたい・・」

高畑淳子さん「パワーの源は??」

対人恐怖症みたいなところがあって・・怖いから元気なんだと思います・・いつも記憶がないんです・・」

★★★

高畑淳子 - Wikipedia

高畑淳子のオリジナルサイト「Atsuko's Stage」
http://members.jcom.home.ne.jp/atsuko1011/

高畑淳子 (俳優・女優)のプロフィール - Yahoo! JAPAN

高畑淳子のオリジナルサイト「Atsuko's Stage

高畑淳子とは - はてなダイアリー

高畑淳子

劇団青年座|座員連名 高畑淳子 プロフィール

NHKスタジオパークからこんにちは★★

堤真一「NHKスタジオパークからこんにちは」に生出演

藤原紀香さん、スタジオパークからこんにちは

NHK「スタジオパークからこんにちは」に飯島直子さん登場、美しさを保つライフスタイルとは??

スタジオパークからこんにちはに江波杏子さん登場

土曜ドラマ「刑事の現場」&森山未來

森本食堂の正介さん・高田延彦さんが「スタジオパークからこんにちは」

スタジオパークからこんにちわにヒロイン・貫地谷しほりさん登場

スタジオパークからこんにちわに四草さん役加藤虎之助さん登場

スタジオパークからこんにちわに草々さん役青木崇高さん登場

スタジオパークからこんにちわに和久井映見さん登場その1
スタジオパークからこんにちわに和久井映見さん登場その2
スタジオパークからこんにちわに和久井映見さん登場その3

posted by 江〜篤姫 at 06:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト

2008年06月16日

西郷吉之助(隆盛)・小澤征悦

“世界の小澤”の長男・征悦はどんな男か


西郷吉之助隆盛)・小澤征悦篤姫 NHK大河ドラマ


明治維新最大の功労者の一人。薩摩藩の下級武士の家に生まれるが、島津斉彬に見出される。江戸薩摩藩邸のお庭番として、篤姫と将軍・家定との婚儀をまとめるため、そして一橋慶喜(よしのぶ)を次期将軍とするために奔走する。のちに、江戸城総攻撃の際に官軍の代表となった西郷は、かつて自らが嫁入り道具を揃えた、篤姫と対峙することになる。

NHK大河ドラマ篤姫第24回「許すまじ、篤姫」その1

NHK大河ドラマ篤姫第23回「器くらべ」その2・慶福(松田翔太)登場
NHK大河ドラマ篤姫第22回「将軍の秘密」
NHK大河ドラマ篤姫第18回「斉彬の蜜命」
NHK大河ドラマ篤姫第17回「予期せぬ縁組」
NHK大河ドラマ篤姫第15回「姫、出陣」
NHK大河ドラマ篤姫第14回「父の願い」
NHK大河ドラマ篤姫第13回「江戸の母君」

★★★

小澤征悦 (おざわ ゆきよし、1974年6月6日 - )

アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身。指揮者の小澤征爾は父。元モデルで女優の入江美樹は母。エッセイストの小澤征良は姉。ミュージシャンの小沢健二は従兄。成城大学卒業。芸能プロダクションコムスシフト所属。趣味はバスケットボールと読書。
(小澤征悦 - Wikipedia)
posted by 江〜篤姫 at 08:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 篤姫・キャスト
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