2008年06月15日

小松帯刀(瑛太(えいた))

肝付尚吾郎小松帯刀瑛太(えいた)

篤姫の幼馴染。篤姫に熱い思いを寄せる。後に薩摩藩家老に。

篤姫と同じ年に生まれ、ある縁で幼なじみとなり、成長とともに篤姫に熱い思いを寄せるようになる…。若くして薩摩藩家老となり、西郷や大久保ら藩士たちをまとめあげる。坂本龍馬とも深い友情で結ばれ薩長同盟も京都の小松邸で結ばれるなど、薩摩藩を明治維新のリーダーに押し上げることに大いに活躍した。しかし、それは、初恋の人・篤姫に刃を向けることにもなっていく。大河ドラマ 篤姫

小松清廉一般には小松帯刀(こまつたてわき)の呼び名で知られる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

小松帯刀清廉小松 清廉こまつ きよかど、天保6年10月14日(1835年12月3日) − 明治3年7月20日(1870年8月16日))は薩摩藩士、明治時代初期の政治家である。

通称は尚五郎、帯刀。元の諱は兼才。官位は玄蕃頭。家紋は抱き鬼菊の葉。

天保6年(1835年)、薩摩国下原良村にて喜入領主・肝付兼善の三男として生まれた。安政3年(1856年)、吉利領主・小松清猷の妹千賀と結婚、婿養子となって小松氏の家督を継承した。 安政5年(1858年)、帯刀清廉と改名。

長崎で西洋水雷などを研究。文久元年(1861年)、島津久光に才能を見出されてその側近となり、大久保利通と共に薩摩藩の藩政改革に取り組んだ。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、その帰国後は家老職に就任した。その活動は主に京都におけるもので、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務めた。

在京中は土佐藩脱藩浪士だった坂本龍馬(小松と龍馬は同年である)と昵懇となり、龍馬の亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬がお龍を妻として娶った際の世話役を務めている。なお、薩長同盟における密約やその際に長州藩代表の桂小五郎が滞在したのも、京都における小松の屋敷であった。慶応3年(1867年)の薩摩藩と土佐藩との盟約である薩土同盟など、諸藩との交渉において大きな功績を立てている。徳川慶喜が諸大名を集め、京都・二条城で大政奉還を発表した時は小松が薩摩藩の代表として参上した。龍馬の新政府の人事構想では、西郷、大久保、桂を抑えて、筆頭に挙げており、当時の人々の小松の評価が窺われる。

明治維新後は新政府において参与や外国官副知事を務めた。フランス政府が江戸幕府の借金を明治政府が返さないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した時、小松と大隈重信はイギリスから資金を借りてフランスに返済し窮地を脱した。版籍奉還にも貢献し真っ先に領地を返上したが、明治3年(1870年)に36歳の若さで病死した。

寛容で雄弁、明快な人柄で人望が厚く、大久保利通や西郷隆盛らからも将来を期待されていた人物であったが、あまりに若すぎる最期であった。下級藩士に過ぎなかった西郷や大久保、一介の浪人であった龍馬が幕末期に活躍できたのも薩摩藩家老であった小松による庇護が大きい。

ちなみに小松の名をとった芋焼酎を鹿児島県南さつま市にある吹上焼酎が製造している 小松清廉 - Wikipedia

★★

[小松帯刀] by 篤姫きらり旅

小松帯刀(小松清廉、肝付尚五郎)
http://www.rekishi.sagami.in/tatewaki.html

小松帯刀 〜薩摩と龍馬を結んだ男〜 講演者・桐野作人氏 2005.07.10 ...
http://www.geocities.jp/ishin_1868/komatsu.htm

小松帯刀
http://sidokan.hp.infoseek.co.jp/page395.html

Samurai World_薩摩紀行_篤姫特集_小松帯刀

<篤姫>視聴率20%超 人気の秘密は「家族愛」


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堀田正睦(ほったまさよし):辰巳拓郎

NHK大河ドラマ篤姫

堀田正睦(ほったまさよし)★辰巳拓郎

老中。蘭学を非常に好み、「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれた。開国論を主導し、阿部のあとを継いで老中首座となった。日米修好通商条約の勅許を得るために京にのぼるが、攘夷派に牛耳られた朝廷は勅許を与えようとしなかった大河ドラマ 篤姫

★★★

正篤は、藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど、蘭学好きであったことから、「蘭癖」と呼ばれた。幕末においては、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。その後、安政2年(1855年)に阿部正弘の推挙を受けて再び老中になる。そして正弘から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねた。安政3年(1856年)、島津家から将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。

安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の許可を得ようとするが、天皇が攘夷派であり、失敗する。

一方、同年、第13代将軍・徳川家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦はもともと水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の徳川慶喜にも好感が持てず、心情的には徳川慶福が第14代将軍に相応しいと考えていたふしがある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対にあって勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋ひいきの朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では、南紀派から一橋派に路線を変えた。

しかし正睦が上洛中に、松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊は堀田をはじめとする一橋派の排斥を始め、老中職を罷免された。そのため、安政6年(1859年)、家督を4男の堀田正倫に譲って隠居した。ただし、井伊は時機を見ての堀田の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。だが、これはかえって堀田と井伊が結んだという憶測を招き、桜田門外の変後の文久2年(1862年)に謹慎処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされた。

元治元年(1864年)3月21日に死去。享年55。

堀田正睦 - Wikipedia
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2008年06月02日

老中・阿部正弘について

NHK大河ドラマ篤姫

老中阿部正弘草刈正雄

老中首座。斉彬と親しく、篤姫を将軍・家定の御台所とすることに尽力する。外様大名たちの力を結集して、外国の侵略から日本を守ろうとした。その容姿から、大奥の女中たちにも非常に人気があったという。大河ドラマ 篤姫

6/1のNHK大河ドラマ篤姫第22回「将軍の秘密」で死去(1857年安政4年6月17日)

阿部 正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。

文政2年(1819年)10月16日、第5代藩主・阿部正精の6男として江戸西の丸屋敷で生まれた。

文政9年(1826年)に父・正精が死去して兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った。しかし、正寧が病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘を養子にして家督を譲って隠居したため、正弘は第7代藩主に就任することになった。

天保8年(1837年)に正弘は福山(広島県福山市)へのお国入りを行った(正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである)。天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に任じられ、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺(台東区谷中)の破却などを行った。

天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。弘化2年(1845年) 、老中首座であった水野忠邦が天保の改革の挫折により2度失脚したため、老中首座となる。第12代将軍・徳川家慶、第13代将軍・徳川家定の時代に幕政を統括する。嘉永5年(1852年)には江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、日米和親条約締結に反対した徳川斉昭は、条約締結後に海防掛参与を辞任することになる。

安政4年(1857年)6月17日、老中在任のまま急死。後を養子(甥)の阿部正教が継いだ。

阿部正弘 - Wikipedia


阿部正弘役草刈正雄さんインタビュー


草刈正雄(くさかり まさお)
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老中・阿部正弘★草刈正雄

NHK大河ドラマ篤姫

老中阿部正弘草刈正雄

老中首座。斉彬と親しく、篤姫を将軍・家定の御台所とすることに尽力する。外様大名たちの力を結集して、外国の侵略から日本を守ろうとした。その容姿から、大奥の女中たちにも非常に人気があったという。大河ドラマ 篤姫

6/1NHK大河ドラマ篤姫第22回「将軍の秘密」で死去(1857年安政4年6月17日)


阿部正弘草刈正雄さんインタビュー大河ドラマ 篤姫

ペリー来航当時、老中首座を務めていた阿部正弘のことは、これまであまり知られていなかったと思います。僕自身、今回、演じさせていただくにあたって、いろいろな資料を読み、こんなにクレバーな人がいたのかと知ってワクワクしました。

阿部は、押し寄せてくる諸外国を、ただ脅威ととらえるのではなく、友好関係を築きつつ、軍備を含めて自国に力をつけていく。それによって対等に物を言えるようにしていくことが大事だという考え方だったんですね。そのために、当時の幕府では考えられなかったような改革的なことを実践しています。

譜代、外様を問わず、広く意見を募るというのも阿部が実施したことでした。譜代と外様といえば、お互いを敵視しかねない関係だったのに、そうしたことにとらわれなかった。斉彬も外様でしたが、積極的に幕政に参加させていました。これも聞きかじりですが、江戸城に参府することもかなわない下級武士だった勝海舟の意見書を読み、とりたてたのもの阿部だったそうです。

彼は志半ばで逝ってしまいますが、「篤姫」によって、これまであまり歴史の表舞台に出ることのなかった悲劇の名老中に光を当てることができて、よかったと思います。


クレバーといえば、島津斉彬も阿部に負けず劣らずすごい人ですね。あの2人は、ともに世の中の先が見えすぎてしまっていた。それだけに、現状を打破するための思い切った策を打ち出すのですが、理解されずに摩擦が起きたりする。大変だっただろうとは思いますが、あの2人がもう少し長生きしたら歴史も変わっていたでしょうね。

阿部は、政治的、経済的な部分でも斉彬を一番頼りにしていました。島津は日本で一、二の経済力を誇っていましたからね。しかし、あの2人の関係はそれだけではなかった。彼らは本当に兄弟のように仲が良かったそうですし、阿部は斉彬の男気に心底、信を置いていたようです。

お互いに武士ですから、何か事が起これば立つという心意気を持っていた。そんな中、斉彬は『事あらば、私が最初に乗り込んでいく』と阿部に言ったという史実も残っているそうです。人間的に尊敬し合うことのできた非常にいい関係だったと思います。


阿部は、それほどインパクトの強い役ではないので、淡々と演じることが多かったですね。実はそういう人間を演じる経験があまりなかったので、今回、俳優としては初めての挑戦だったんです。しかし“動”ではなく“静”という部分も含めて、いままで光が当たっていなかった人物を演じることに魅力を感じ、当時の彼の苦しさや孤独感を、なんとか出せたらいいなという意識がありました。

ただ、最後が病死なのでどうなのかなと思っていたんですよ。堀田正睦に老中首座を渡したとき、自らの死期をさとっていたとは思うのですが、それだけでは伝わりにくい。戦国時代の武将なら、戦場で『ワーッ』と叫びながら死ぬとか(笑)、いろいろ表現できるんですけどね。

それが最後に、篤姫と会い自分の思いの丈を話すことができた。おそらく阿部は、この姫なら何とかしてくれると信じることができて、後のことを託したんだと思います。さらに、どういう気持ちの変化か(笑)、初めて水戸殿に逆らって『アメリカとやっても勝てません』と言い切ってしまった。これだけはっきりぶつかることで、水戸殿との関係にもけりをつけることができたわけで、演じていても楽しかったですよ(笑)。
大河ドラマ 篤姫

草刈正雄(くさかり まさお、1952年9月5日-)は、福岡県小倉市(現・北九州市小倉南区)出身

父親は米国軍人であり、彫りが深く際立った美貌を持った男優である

高校中退後、スカウトされ資生堂専属モデルとなりデビュー、「MG5」などのコマーシャルに起用された売れっ子モデルだった。モデルデビュー当初から甘いルックスと軽快な語り口で人気を得る。
その後、野中マリ子の俳優養成所「野中塾」で演技を学び、俳優に転向する。
1974年に『卑弥呼』で映画デビュー

ドラマ『華麗なる刑事』(1977年)で共演して以来交際を続けたモデルの大塚悦子と1988年に結婚。3児の父である。次女の草刈麻有も同じ事務所であるブルーミングエージェンシーに所属しており、芸能活動を行っている草刈正雄 - Wikipedia

草刈正雄「娘が口利いてくれない」

NHK大河『篤姫』に堺雅人、玉木宏、松田翔太、堀北真希ら決定

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2008年05月30日

家定の側室・お志賀:鶴田真由

NHK大河ドラマ篤姫

徳川家定(境雅人)の側室・お志賀:(鶴田真由

将軍家定の側室。家定が唯一心をゆるした女性である。お志賀の存在を御台所になるまで知らなかった篤姫にとって、たいへんなライバルとなる。 大河ドラマ 篤姫

鶴田真由(つるたまゆ1970年4月25日 - )
神奈川県鎌倉市出身。身長156cm、血液型O型。
1988年、「あぶない少年II」でデビュー。
2002年12月、芸術家の中山ダイスケと結婚した。
鶴田真由 - Wikipedia

番組の取材などでアフリカを訪れたことが契機となり、2008年2月、第4回アフリカ開発会議(TICAD)親善大使の委嘱を受けた。同年3月から4月にかけてケニア及びスーダン南部の視察を行っている。

<鶴田真由さん>親善大使としてアフリカ訪問報告 首相に

鶴田真由、台本読んで涙…「恋する彼女、西へ。」舞台あいさつ

大奥とは・・

NHK大河『篤姫』に堺雅人、玉木宏、松田翔太、堀北真希ら決定


NHK大河ドラマ篤姫


<篤姫>視聴率20%超 人気の秘密は「家族愛」

★★★

NHK大河ドラマ篤姫第20回「婚礼の夜」

NHK大河ドラマ篤姫第19回「大奥入城」

NHK大河ドラマ篤姫第18回「斉彬の蜜命」20.9%

NHK大河ドラマ篤姫第17回「予期せぬ縁組」23.1%

NHK大河ドラマ篤姫・第7回〜第15回

★★★

NHK大河ドラマ篤姫第18回「斉彬の蜜命」
尚吾郎(瑛太)は お近(ともさかりえ)は夫婦になりました。

大奥とは・・


★★★

<妻夫木聡>「伝える使命感を感じる」 NHK大河ドラマ「天地人」で主役・直江兼続

主演は妻夫木聡さん=来年のNHK大河ドラマ「天地人」

直江兼続 - Wikipedia
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2008年05月11日

井伊直弼(中村梅雀)

井伊直弼中村梅雀

大老。伝統と血筋を重んじて家茂を将軍に推した。大老就任後は日米修好通商条約を締結し、さらに、慶喜擁立を謀った一橋派を厳しく処罰した。そのため、勤皇の志士に命を狙われ、幕府を揺るがす「桜田門外の変」がおこる。大河ドラマ 篤姫

井伊直弼役中村梅雀さんにインタビュー(NHK篤姫HPより)

大河ドラマ「篤姫」第32回「桜田門外の変」

安政の大獄

井伊直弼(いい なおすけ)は、近江彦根藩の第15代藩主。江戸幕府の大老である

幼名は鉄之介・鉄三郎。号は埋木舎・柳王舎・宗観。

第11代藩主・井伊直中の十四男。本来ならば他家に養子に行く身であったが、兄で12代藩主・井伊直亮の養子となる。その後、家督を継ぎ第13代藩主となる。大老に就任して事実上の幕府最高権力者となり安政の大獄を行なって反対派を処罰したが大獄に対する反発から桜田門外において水戸脱藩藩士らに暗殺された(桜田門外の変)。

家督相続まで [編集]
文化12年(1815年)10月29日、第11代藩主・井伊直中の14男として近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれる。幼名は鉄之介、後に通称は鉄三郎。諱は当初、直輔。

庶子であったため、養子の口も無く[1]、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。この間、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らした。この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。その頃「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。

ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中11男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、従四位下侍従兼玄蕃頭に叙位・任官する。嘉永2年(1849年)には左近衛権少将に遷任し、玄蕃頭を兼任した。

嘉永3年(1850年)、直亮の死去を受け家督を継いで第15代藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)に遷任する。

彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれたと言われる。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきたときには、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張している(ただし、直弼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述))。

安政2年(1855年)、左近衛権中将に遷任し、掃部頭は兼任となる。安政4年(1857年)、従四位上に昇叙される。

このころ幕政は、嘉永から安政年間にわたって老中首座の阿部正弘によってリードされていた。阿部は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた。しかしこれは、溜間(江戸城で名門譜代大名が詰める席)の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜間詰諸侯と、阿部正弘・徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に迫り、老中の松平乗全、松平忠固の2名の更迭を要求する。

安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。乗全、忠固はともに開国・通商派であり、また乗全と直弼は個人的に書簡をやり取りするほど親しかったからである。直弼は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して、直弼を筆頭とする溜間諸侯が一矢報いた形といえる。

安政4年(1857年)、阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。


「井伊直弼大老職就任誓詞控」松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により 安政5年(1858年)4月23日、直弼は江戸幕府の大老に就任した。就任直後の6月19日、直弼は孝明天皇の勅許を得られぬまま アメリカと日米修好通商条約に調印し、無勅許調印の責任を、自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に逐い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。病弱な将軍・家定の後継問題では紀州藩主の徳川慶福を擁立して第14代将軍徳川家茂とし、一橋慶喜を推薦する水戸徳川家の徳川斉昭や松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

また閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にした。故に尊王志士達から憎まれた。安政6年(1859年)、正四位上に叙せられるが、太田資始、間部詮勝も罷免、更に孤立した。

直弼の対応に憤った水戸藩士らは朝廷に働きかけ、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下し、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける。前代未聞の朝廷の政治関与に対して幕府は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じる。こうして開始した安政の大獄において多数の志士(活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らを粛清したが、尊攘派の怨嗟をうけ、安政7年(1860年)3月3日に江戸城桜田門付近において水戸藩浪士に暗殺された(桜田門外の変)。享年46(満44歳没)。

後を次男・井伊直憲が継いだが、文久2年(1862年)、安政の大獄を行なったことを罪にされて、幕命により彦根藩は10万石減封されている。 墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都 世田谷区)。茨城県水戸市所在の妙雲寺には直弼の慰霊碑が建てられている。

部屋住みの時代に儒学、国学、曹洞宗の禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、茶の湯、能楽などの多数の趣味に没頭していた。特に居合では新心流から新心新流を開いた。茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書『茶湯一會集』巻頭には有名な「一期一会」がある[2]。他に『井伊大老茶道談』などを著している。能楽方面では能面作りに没頭し、能面作りに必要な道具を一式揃えていた。また、新作狂言「鬼ヶ宿」の制作や、廃曲となっていた「狸の腹鼓」の復曲(いわゆる「彦根狸」)を試みるなど、狂言作者としての才能も持っていた。
井伊家の館からは維新後、直弼の遺品と思われる大量の洋書や世界の地図等が発見されており、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と考えていたという彼の志と博識が伺える。
安政の大獄における過酷な処分は多くの人々から恨まれ、彦根藩祖である直政同様に「井伊の赤鬼」といわれた。ただし直政の場合は畏敬の念が含まれていたが、こちらは憎しみのあまりである。また、直弼を指す隠語として「赤鬼」という語を用いる場合がある。対比として、間部詮勝は青鬼といわれた。
桜田門外の変による暗殺が、直弼の強権的な手腕で回復しかけていた幕府権威を衰退させるきっかけとなったという見方がある一方、その強権的な手腕で断行した安政の大獄では攘夷派のみならず開国を推し進めた開明派官僚まで大量に追放したため、幕臣からモラルや人材が失われ、幕府滅亡の遠因になったという見方もある。
直弼は「開国を断行して日本を救った政治家」という評価もある。彼のような人物が現れて開国を行なわなければ、日本の歴史は大きく変わっていたといえる。その意味で直弼は幕末政治を語る際には欠かすことのできない一人である。ただし開国に関しては阿部正弘のころからの既定路線であり、それまで綿密に進められた水戸や薩摩といった雄藩や朝廷への根回しや海外事情の調査、開明派の人材登用による開国体制の構築が直弼の強引な手法により瓦解し、大混乱を招いたともいえる。
直弼が開国を唱えたり条約に調印したのは水戸や薩摩などの有力諸侯による幕政への介入に対抗するための一時の方策であり、直弼自身は江戸幕府が国政の実権を回復した後に幕府とこれを支える親藩・譜代大名が主体となって攘夷を行うべきであるとする一貫した攘夷論者であったとする見方もある[3]。この見解によれば、安政の大獄による有力諸侯や攘夷派の処罰も、直弼が条約締結の裏で進めていた攘夷(鎖国への復帰)も、「幕府の権威回復による旧体制への回帰」という路線上にある方針であるとされている。司馬遼太郎のように「攘夷派を弾圧したが開明論者でもなく西洋嫌いであった(『花神』の記述を要約)」と彼に対して厳しい評価をする者もいる。
彦根城内の他に横浜市の掃部山公園内に、開国断行を顕彰して、元藩士らにより銅像が建てられている。
彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、昭和43年(1968年)に「親善都市」提携を行った。
肖像画は狩野永岳の作と、直弼の四男・井伊直安の作が知られている。

井伊直弼 - Wikipedia
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2008年05月04日

幾島・松坂慶子

幾島・松坂慶子

篤姫付き老女。篤姫を、江戸の社交界にデビューさせるために「姫」としての教育をたたきこむ。幾島の厳しい躾に、篤姫は反発するが、江戸城に入ってからは篤姫の「無二の戦友」となる。大河ドラマ 篤姫

松坂慶子(まつざか けいこ、1952年7月20日 - )

東京都大田区出身。本名は高内慶子。父親は在日韓国人。母親は日本人。日本に帰化[1]。小学2年生の時『くるみ児童合唱団』に入団。中学時代には演劇部に所属。中学3年生で「劇団ひまわり」に入団。

1967年、『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』でテレビ初出演。日本大学第二高等学校に進学[2]。高校時代にスカウトされ、1970年に大映で本格的に映画デビュー。1972年に松竹へ移る。

1979年に、ドラマシリーズ『木曜座・水中花』[3](原作・五木寛之)において、自らテーマソング『愛の水中花』を歌うとともにバニーガール役に挑戦し、セクシー女優としての地位を固めたことで一躍ブレイクし、1980年代には『青春の門』『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』『蒲田行進曲』『火宅の人』『椿姫』『死の棘』などの映画や、『春の波涛』などのテレビドラマに出演し、女優としての地位を確立した。

1991年、ジャズギタリストの高内春彦と結婚し、一時期米国に移住したが、結婚にまつわる騒動[4]が収束して以降は、再び日本で女優として活躍を続けている。

2000年には、「東京電話」のCMで大根を持った主婦をコミカルに演じて新たなイメージを開拓した。

2002年にはヘアヌード写真集『さくら伝説―松坂慶子写真集』(なかにし礼原作・監修)をヒットさせた。

2005年8月29日に大塚食品が発売した「ボンカレークラシック」での外箱のキャラクターを、松山容子に代わり、務めることになった[5]。同年の秋にはドラマ『熟年離婚』に主演し、渡哲也が演じる夫に離婚を切り出し自分の人生を新たに切り開く主婦役を好演した[6]。さらに同年12月放送の『ウリナリ芸能人社交ダンス部』では、ダイナミックに動きキレのある社交ダンスを披露し、初出場ながら優勝するなど、年齢を感じさせない美貌と体力を保っている
松坂慶子 - Wikipedia
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近衛忠熙(春風亭小朝)

近衛忠熙春風亭小朝

五摂家筆頭、近衛家当主。島津家は、もともと近衛家の流れを汲む家柄。しかも忠熙の正室は斉彬の姉であり、斉彬とは非常に親しい間柄だった。篤姫は、斉彬の養女となった後、さらに忠熙の養女として、将軍・家定に嫁いだ。篤姫にとっては、三番目の父となる。のちに忠熙は、皇女・和宮による公武合体を強力に推進することになり、篤姫の人生に強い影響を与え続ける。大河ドラマ 篤姫

春風亭小朝(しゅんぷうてい こあさ 1955年3月6日 - )は、落語家、俳優。東京都北区出身。東京電機大学高等学校卒業。本名は花岡 宏行(はなおか ひろゆき)。前座名は春風亭 小あさ(読み同じ)。出囃子は『さわぎ』。キャッチフレーズは『横町の若様』。有限会社春々堂所属 春風亭小朝 - Wikipedia

小朝&泰葉離婚…20年目のど〜もすいません
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2008年04月13日

お由羅:涼風真世

お由羅涼風真世
斉興の側室。忠教(久光)の母。実子・忠教を藩主にすべく、いわゆるお由羅騒動を引き起こし、薩摩藩が分裂するきっかけをつくる。

涼風真世(すずかぜ まよ、1960年9月11日 - )元宝塚歌劇団・月組トップスター。
1981年に宝塚歌劇団に入団。黒木瞳、真矢みき、毬藻えりなどと同期入団である。「春の踊り」で初舞台。以後、歌唱力に秀でたフェアリータイプの男役スターとして歩み1991年「ベルサイユのばら・オスカル編」で月組トップスターに就任、2年目の1993年7月に「グランド・ホテル」で退団。以後はテレビドラマや舞台、映画などで活躍。歌手としてCDもリリースしている。

2004年7月、サントリー社員で元ラグビー日本代表、早稲田大学ラグビー部コーチの今泉清と結婚。
涼風真世 - Wikipedia

(04/13)NHK大河ドラマ篤姫第15回「姫、出陣」
タグ:涼風真世
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2008年03月30日

篤姫・キャスト・薩摩藩上級藩士

NHK大河ドラマ篤姫・キャスト・薩摩藩上級藩士

尚吾郎(瑛太)肝付尚五郎→小松帯刀:瑛太

肝付兼善の三男。於一(篤姫)の幼なじみで熱い思いを寄せている。小松家を継ぎ、若くして薩摩藩家老となると、西郷や大久保たち藩士をまとめ、活躍する。

●肝付兼善:榎木孝明

薩摩藩の名門・肝付家の当主。尚五郎の実父。於一の父、忠剛と親交が厚い。小松清猷の願いを受け入れて、尚五郎を小松家の養子に送り出す。

小松清猷(沢村一樹)

小松家の当主。容姿端麗で幼時から神童と噂されていた。於一や尚五郎、忠敬らに学問を指導する。斉彬に抜擢され側近として仕えるが、海防のために向かった琉球で若くして病死する。

●お近:ともさかりえ

小松清猷の妹。香道を通じて於一と仲良くなり、姉のような存在となる。清猷の死後、7歳年下の肝付尚五郎と結婚し、小松の家を守る。

●調所広郷(笑左衛門):平幹二朗

薩摩藩家老。斉興の元、藩政改革に尽力する。抜荷(密貿易)が幕府に発覚しそうになったため、服毒自殺した。

●島津豊後:浅沼晋平
●島津将曹:天現寺竜
●竪山武兵衛:山本竜二

●きぬ:三沢明美
肝付兼善の妻。尚五郎の生母。

●島津久風:坂部文昭
●島津家家臣(橋口):長沢大
●川上筑後:岡本光太郎
●桂久徴:黒木利徳

篤姫 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia

大河ドラマ 篤姫 http://www3.nhk.or.jp/taiga/
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2008年02月11日

ジョン万次郎・勝地涼

ジョン万次郎 勝地涼( 篤姫 NHK大河ドラマ )

ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日)とは波乱万丈の人生を送り幕末の日本で活躍した通訳・教師。本名、中濱万次郎(なかはままんじろう
土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。

天保12年(1841年)、14歳の時に漁師の手伝いで漁に出たあと遭難し、5日半漂流後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救われる。日本はその頃鎖国であったため、救われた大人達は寄港先のハワイで降ろされるが、アメリカのホイットフィールド(Whitfield)船長に気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。船名にちなみジョン・マン (John Mung) の愛称をアメリカ人からつけられた。

アメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれる。万次郎はアメリカの民主主義を目の当たりにすることになる。世界の各地を航海した万次郎は、その後船を購入しハワイに寄港、元の仲間と再会し、嘉永4年(1851年)共に日本へ帰国を果たす。

海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は長期間尋問を受けることになるが、なんとか土佐に帰ることができた。その際薩摩藩の島津斉彬がその知識に注目し、幕府ではペリーの来航によってアメリカの知識の重要性が増していたことから、嘉永6年(1853年)、幕府に召聘され直参の旗本となった。この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授けられた。

江戸で通訳も務め、またアメリカで身につけた学問を基に各地で講師としても活躍する。高知では坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。

万次郎は少年期に日本で基本的な学識を身に付けることなく米国に渡ったため、通訳としては有能であったが、文章化された英語を日本語に訳することが不得手であったとされる。そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は能力を発揮する機会に恵まれず、目立った活躍はしていない。

鎖国中の日本において、アメリカ本土に初めて足を踏み入れた人物であるため、彼は初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。

伝記を子孫が3代に渡って同じ出版社から出したことでも知られ、ホイットフィールド船長の子孫とも代々交流がある。また、出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード市、フェアヘーブン市の両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられている。

蘭学者・河田小龍により「漂流記」が、まとめられた。

万次郎が日本で初めてネクタイをしたと言われる。
ジョン万次郎 - Wikipedia

勝地 涼(かつぢ りょう、1986年8月20日 - )

所属事務所はフォスター。東京都出身。堀越高等学校卒業。血液型はAB型。趣味は読書、バスケットボール、野球。映画『亡国のイージス』(2005年)で第29回日本アカデミー賞新人賞を受賞。

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