2008年09月15日

生麦事件・薩英戦争


NHK大河ドラマ「篤姫」第37回「友情と決別」

★★★

生麦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

生麦事件なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。

江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光の行列が生麦村に差し掛かった折り、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。薩摩藩士達はイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人には意味が通じず、久光の乗る駕籠の近くまで馬を乗り入れてしまう。

これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかった[1]。リチャードソンは奈良原に袈裟に斬られて内臓が飛び出るほどの重傷を負った上、逃げる途中で久木村治休にさらに抜き打ちに斬られた。その最期については、現場に遭遇した薩摩藩士海江田信義の証言によると、初太刀を受けて重症を負い逃げていたリチャードソンを追いかけた海江田ら数名の薩摩藩士が、落馬して苦しんでいるリチャードソンの姿を発見し、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさした、という。のちに、「これ以上苦しまない様に介錯をする」という薩摩藩士の心使いが、イギリス側から見れば「苦しんでいる者に手当てをせずに斬り殺した非道な行為」と解釈され、非難されることになった。このように日本とイギリス側の習慣の違いが事件を更に問題化させる事となった[2]。

この他、マーシャルとクラークの2人が負傷した。なお、ボロデイルは無傷だったが後に精神に異常をきたし、程なくして死亡した[3]。

この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩は架空の足軽の名を犯人として挙げた上犯人逐電として処罰を拒否し、結果として翌年薩英戦争が勃発する。

生麦事件 - Wikipedia

生麦事件と薩英戦争

生麦事件の詳細

★★★

薩英戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

薩英戦争(さつえいせんそう、英:Anglo-Satsuma War、1863年8月15日(文久3年7月2日) - 8月17日(7月4日))は、生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における砲撃事件。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを理解し、イギリスは幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。

1863年8月15日(文久3年7月2日) - イギリス艦隊は薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を拿捕する。正午、薩摩藩が陸上砲台80門を用いて先制攻撃を開始。

イギリス軍は応戦が遅れたが、14時、100門の砲(うち21門が最新式のアームストロング砲)を使用し、陸上砲台(沿岸防備砲)と同時に鹿児島城北の市街地を艦砲射撃で反撃。近代工場を備えた藩の集成館を破壊。薩摩藩側は汽船と応戦した砲台のほか工場生産能力を失った。薩摩藩の陸上砲台によるイギリス艦隊の損害は甚大で、大破1隻・中破2隻の他、旗艦ユーリアラスの艦長・副長の戦死を含む死傷者63人にも及んだ。イギリス側の戦傷者の被害状況は、死亡者の殆どは頭部などへの破裂弾(榴弾)の被害を多く受けており、戦闘の様子を伝える当時の新聞挿絵なども、イギリス艦隊の頭上で砲弾が炸裂する様子を描いており、薩摩はイギリス艦隊に対して榴弾砲を多用した攻撃を行なったことがうかがわれる。 (旗艦ユーリアラスの被害の中には、薩摩側の攻撃によるものではなく、アームストロング砲の爆発事故[要出典]によるものもあったがイギリス海軍は薩摩によるものとして賠償要求に含めている。この事故によってアームストロング砲はイギリス海軍から全ての注文をキャンセルされ、輸出制限を外されて海外へ輸出され、後に日本にも輸入されることになった) 一方薩摩藩側は、物的損害(城下の焼失10分の1)は受けたが、死傷者はイギリス側と比べると9人と,非常に少ない。

1863年8月17日(文久3年7月4日) - 16時、イギリス艦隊は旗艦艦長・副長の戦死などの被害甚大より横浜に撤退する。

イギリス側の被害が大きい理由としては、戦闘準備不足の上、開戦当時は暴風雨状態であったことから、照準が定まらないこともあいまって砲撃頻度が低かった。その上に薩摩藩側の事前演習の標的近くに侵入してしまい(薩摩藩は、イギリス艦隊の来襲を事前に知っており、迎撃のため演習を行っていた)、薩摩藩側の砲弾命中率が予想以上に高かったことも挙げられている。

一方、薩摩藩側の物的被害が大きかった理由としては、イギリス側の艦載砲が命中率・射程が圧倒的に有利だった為や当時の日本家屋の殆どが木造建築であり、気象条件からも当然の結果として艦砲射撃による火災の延焼は免れなかった。また動く標的である艦隊は、薩摩藩側からの反撃を受けにくく、天候の回復にしたがってイギリス艦隊からの一方的な艦砲射撃を受けたことが挙げられる。このとき、鹿児島湾内沖小島付近に集成館にて製造した水中爆弾3基(地上より遠隔操作)が仕掛けてあり英国船が通るのを待ち伏せしていたが、沖小島砲台が発砲した為近寄らず失敗した。

この戦闘での勝敗について、上記の様な歴史的事実から『イギリス艦隊勝利説』・『薩摩藩勝利説』・『双方引分け説』等、学者・研究家によって意見が異なっている。尚、英国は薩摩に侵入した以前に徳川幕府より多額の賠償金を得ており、イギリス議会はイギリス海軍による鹿児島城下の民家などへの艦砲射撃を、必要以上の不正な攻撃とみなして非難した。

戦争の結末
1863年11月15日(文久3年10月5日) - ジョン・ニールと薩摩藩がイギリス大使館で講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払う。しかし、この借用金は幕府に返されることはなかった。
イギリスは薩英戦争以降、薩摩藩側の兵力を高く評価するようになり、フランスに対抗する政治的理由の観点から、従来の徳川幕府支持の方針を転換、薩摩藩との関わりを強めることとなる。

薩英戦争 - Wikipedia


posted by 江〜篤姫 at 04:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生麦事件
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